個室トイレからの脱出

@mourimaki

本編

「オィ誰だようんこしてんのよぉ!」



来た。

やっぱり来た。

どれだけ予測していようとも何度体験しようとも

この瞬間の心臓を掴まれるような感触を止めることは出来ない。



中学校の昼休み。

給食を食べ終えた後のことだった。


生来胃腸の吸収が悪くお腹の弱い僕は

そのタイミングでもよおすことが多かった。


当時はまだ給食を残すことは基本的に許されておらず

また僕自身も出された食べ物は全ていただきたいという信条があったため

生まれつきの身体的特徴と後天的に身に付いた思考のせめぎ合いの末に

トイレと親密な関係になるのは至極必然のことだった。


しかしながら小中学校の男子トイレには

子どもにしか理解されることのない特別なルールが確かに存在していた。



個室トイレを使用した者には問答無用で

【公開処刑】という判決が下される。


大人になって考えればなんと理不尽な話だろうか。

腹を下した挙げ句に恐ろしい判決まで下されるのだ(うまいこと言わんでええねん)。

まさしくトイレの中で半ケツ状態で判決を下される(だからうまいこと言わんで略)。


思い出話ならば冗談にも出来るかも知れない

しかしその時その場面では文字通り冗談じゃない。



そんな理不尽な目に遭うことが分かり切っているため

当然こちらも対策は用意している。

生徒が滅多に使用することの無いトイレを使うのだ。


1階にある職員室前のトイレ

そこは言うなれば治外法権。

「子ども」という恐ろしい暴徒たちが謳う法から逃れられる唯一の場所だった。


その日も僕はそこへ向かった。

あそこならば安心して用を足せる

何も心配することは無い

そう信じていた。



1階職員室前のトイレの

個室トイレのドアに鍵がかかっていると気付くまで。



目の前の出来事が信じられなかった。

しかし受け入れないわけには行かない。

共用のトイレなのだ。

誰が使っていても文句を言える道理は無い。


ちょうどその時、少しお腹の波は治まっていた。

おや、と思った。

これはもしややり過ごせるのではないか?と。

何も無理に今済ませることもないか、と思った。

それぐらい穏やかな状態だったのだ。


少し考えて、僕は4階の自分の教室に戻ることにした。

今日は大丈夫

そう判断してのことだった。




それが間違いだった。




教室に戻って間もなく

先ほどの穏やかさが次の波へのタメだったことがすぐに分かった。


ダメだ

これはダメだ

津波だ


1階のトイレには行けない

間に合わない

それが僕の下した判断だった。

腹を下した僕の判断だった(うまいこと言わんd略)。


すぐさま教室から一番近いトイレに向かった。

個室に入ってひとまず事無きを得た。




「オィ誰だようんこしてんのよぉ!」


冒頭のセリフが聞こえて来たのは

その後すぐのことだった。




僕が個室に入って間もなく

男子が数人連れ立ってトイレに入って来たのだ。


「うぉくっせぇ!おぃうんこしてんじゃねえよ!」

「おい誰だよ出てこいよ!返事しろよオィ!」


この声は隣のクラス

3年E組の連中だ。


出てこいと言われても困る。

何しろ今出ているところなのだ(うまいこと言わんd略)。


拙くも確実に心を削る罵声と

ノックと言うにはあまりにも暴力的なドアを殴る音の後に続いて

上から物を投げ入れられるという攻撃が繰り広げられた。


たわし

ホース

サンポールの容器(中身入り)


およそトイレの中で手に取れるサイズの物が次々と投げ入れられた。

物自体は軽いものばかりで、身体的なダメージは無いに等しい。

が、心の方はというとそうも行かない。

徒党を組んだ中学生男子の攻撃は非常に的確にダメージを与える術を心得ている。


僕は必死の思いで抵抗をした。

と言って個室トイレの中で(いろんな意味で)無防備な僕に出来ることなど無いに等しい。

唯一出来た抵抗は


「何もしないこと」


だけだった。


僕は声を出さなかった。

そして上から降って来るものから身を守るためと、覗かれても顔を見られないためにうずくまるように下を向いていた。

抵抗とは名ばかりで、ただひたすらに耐えた。

僕に出来ることはそれだけだった。



永遠に続くかのように思われた公開処刑は

時間にしてみればわずか数分間であっけなく終わりを迎えた。

チャイムが鳴ったのだ。

5時間目の授業の開始が迫っている。


E組の男子たちは舌打ちをするように思い思いの捨てゼリフを吐きながらタラタラと出て行った。

騒ぎを聞いて後から来た者もいたのか、最後には7〜8人は居たように思う。


「…もう授業始まるよ?」


最後に出て行った一人が声をかけてくれたのが印象的だった。

T君だ。

彼はおとなしくて気が弱いけど良いやつだった。

僕を断罪する暴徒たちを止めることこそ出来なかったけれど、僕の身を案じてくれた。

そのことが僕の心を少し熱くさせた。


今思えば彼のその優しさが

弱った僕の心に少しばかり力をくれたのかも知れない。



静かになったトイレの中で

一人落ち着きを取り戻す。


そこそこ辛い目には遭ったが

終わってみればこの程度で済んで良かったと胸を撫で下ろした。

水をかけられたりサンポールの蓋を空けた状態で投げ入れられなくて良かったと心底思った。

濡れもののダメージは計り知れない。



さて

この後どうしたものか



トイレの目の前には教室がある。

先ほど断罪祭りを繰り広げた裁判員たちが授業を受けているであろう3年E組の教室が、そこにはある。


そしてその教室のドアは授業中でもいつも開いていて

僕がトイレから出れば彼らの視線がこちらに向くであろうことは容易に想像出来た。


けちょんけちょんにイジめ倒された僕だったが

唯一守り通したものがあった。

顔は見られていない

トイレに居たのが僕であるということは、バレていないということ。


だからこそ、である。

ここから出た瞬間に


「あぁ、やっぱあいつかよwww」


これだけは避けたかった。

ちっぽけなプライドを守り通したかった。

最後まで抵抗をしたくなった。



さてさて

どうしたものか…


投げ入れられたものを片付けて

手を洗いながら考える。


ドアから出ないとなると…


ドアの反対側に目を向けると、外に面した窓がある。

窓を開けてみる。

当然、外だ。

4階から見える景色が広がっている。


左右を見てみると

左にはすぐ壁

そして右には雨樋の筒が縦に伸びていた。


雨樋は昇降口の天井まで繋がっていて

ちょうど2階に当たる部分から生えるように4階まで伸びていた。


次に窓から下を見ると、そこには足場があった。

奥行き1メートルにも満たない足場で、手すり等は無い。

良識ある大人であれば決して降り立つことの無いキャットウォーク。

恐らくビルメンテナンス業者以外立ち入ることの無いであろうスペース。


その時の僕はビルメン業者では無かったが、良識ある大人でも無かった。

ちっぽけなプライドを守りたい

それだけが一番大切な、非常識極まりない危険な思考の中学生だった。


もちろん少しの間考えはした

が、本当に申し訳程度に少しの間だけだった。

頭も腹もスッキリしていた。

スッキリと、狂っていた。


僕は窓から身を乗り出して足場へと降り立った。



壁の出っ張りを掴みながら、数メートル先にある雨樋を目指して進む。

高さに対する怖さは無かった。

誰かに見つかって騒ぎになることの方が怖かった。


すぐ後ろには体育館があった。

中で体育の授業をしている先生や生徒から見られているのではないかと思うと鼓動が早くなった。


雨樋にたどり着いて掴まると

僕は下に向かって手繰るように降り始めた。


雨樋をイメージしていただけるだろうか。

塩ビで出来た筒状のもので、強く蹴っ飛ばせば割れてしまいそうなアレだ。

そんなものに身を委ねて、4階の高さから下に降りて行く。

誰がどう考えても狂気の沙汰だ。

もっと端的に言えば頭が悪いことこの上無い。


いくら僕の体重が規格外に軽いとは言っても

またつい先ほどスッキリしたからいつもよりも更に幾分か軽いとは言っても

雨樋が壊れて落下しても全くおかしく無い状況だった。


解っていなかったわけではない

落ちたら落ちただ、と思っていた。



幸いその無謀な覚悟は無駄で済んだ。

昇降口の屋根の上

2階に面した部分まで無事に降り立つことが出来た。


今度の足場は広い。

誰かに見つかることを怖れて、素早く動き出す。


トイレの真下はやはりトイレがある。

よしここから中に入れるぞと男子トイレの窓に手をかけた時

僕は初めてその事に気付いた。



開いてるのか?



本当に一瞬だった。

既に僕の手は窓に触れているのだから、あとは横に引けば良いだけ。

躊躇う必要など本来無かったはずだった。

でもその一瞬は本当に体が冷えた。

ここまで来て…という気持ちだった。


時間にして一瞬

だけど気持ちは途方も無い

そんな瞬間だった。

走馬灯ってあんな感じだと思う。


僕一人にしか分からないそんな複雑な一瞬の時を経て

アルミサッシにかけた手に少し力を込めると窓はあっけなく横に動いた。




開いてた…!!




急いで窓から中に入り

2階のトイレのドアから校舎の中へと戻る。

教室から1年生の生徒が何人かこちらを見たような気がするが気付かないフリをする。

僕が戦った相手は彼らではない。

だからその、あんまり見ないでほしい。


そしてそのまま階段を駆け上り

屋上階の踊り場へとたどり着いた。

とりあえず誰も来ない場所に行きたかった。

落ち着きを取り戻したかったからだ。



状況に安心すればするほど

自分の行動を冷静に思い返すほど

とんでもない頭の悪さに驚きを隠せなくなってくる。

端的に言うと「なんであんなことしちゃったんだろう」の最たるやつ。


もしも無事に済んでなかったら

無事だったとて誰かに見られていたら


もしたらればが押し寄せて来る。

トイレに行く前のとは違う大津波だ。



一方で

それとはまた別の感情が僕の中に芽生えていた。


やってやった

やってやったぞ

僕はやりきったんだ


あまりに無意味で

あまりに愚かな戦いだった。


戦った相手は僕が戦いを挑んでいたことすら知らない

誰が勝って誰が負けたのかさっぱり分からない

そもそも勝負ですらない



それでも

僕は勝った

何かに勝ったんだと

そう思うことを止められなかった。




あの時トイレで

うんこを止められなかったように(うまいこt略)。

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