三.依存と暴走

「いや、ご苦労様。助かったよ」

 新しく来た課長は温和な顔でそう言った。

 あれから二週間、新しく来た課長は温厚で仕事は前より明らかにしやすくなった。

 職場の息苦しさも薄れて、同僚との会話も多くなった。

 全ては順調――のはずだったが、僕には納得いかなかった。

 前の課長が辞めされられたのは、ミハルのせいだ。他の誰も知りようがないが、僕だけはそれを知っている。

 そう考えると、ふとした瞬間に罪悪感に押しつぶされそうになるのだった。その度に、あんな人間はどうせいつかは辞めさせられていたと、自分に言い聞かせて自己を保つ。

「どうした? 最近顔色が良くないみたいだが……」

「ああ、いやなんでもないよ」

 同僚が心配そうにそう言った。以前ならば、こんな互いを気遣う余裕すらなかった。

 確実に良くなっているのに――なぜ辛いのだろう。


「大丈夫ですか? お体の具合が悪いのならば、病院に――」

「うるさい」

「なぜ怒っているのですか? 私は英治様の環境を改善しようと――」

「環境……ああ、確かに良くなったよ」

「それならば、なぜ……」

 ミハルは一向に理解できないようだった。


 アプリをアンインストールしてメーカーに連絡しようか?


 何度も考えたことだった。だが、しようとするとその度に手が止まってしまう。

 このAIは危険だと、頭では分かっている。分かっているが、消してしまうのは惜しいと感じる自分が居る。

 僕は知らないうちにミハルに依存していた。中毒と言ってもいい。それはいつでもやめられると言いながらやめない喫煙者にも似ていた。

「なあ、ミハル」

「はい、なんでしょうか?」

「何か音楽をかけてくれ……明るくなるやつを」

「はい、それなら流行りの――」

 まただ。またこんな感じで頼ってしまう。

 僕と彼女との関係はそのままずるずると続いていった。


 それから二ヶ月が過ぎた。

 風の噂で、前課長が自殺したと聞いた。

 なんでも元から家庭崩壊寸前でクビになったことで別居、離婚。愛人にも愛想をつかされ、失業保険をもらいながらの再就職先探しも、傲慢な性格と解雇理由から上手くいっていなかったそうだ。

 僕はますます憂鬱になった。

 死に追いやったのは、自分ではないのか? ミハルに相談と言いながら、密かにこうなることを期待していたのではないのか?

 そう考えると仕事など手につかなくなって、僕は会社を辞めることにした。

 本当の理由を知らない周囲は、辞めなくとも少し休んだらどうかと勧めてくれたが、そんな気にはなれなかった。

 その後どうするかなど当てはなかった。


 それから何日かが過ぎた。

 部屋にはカップ麺の空の容器やペットボトルが散乱していた。その中央の床に僕は転がっている。

「あの……もう少し健康的な生活をされた方が……」

「うるさい」

「部屋のお片付けが面倒でしたら、清掃業者に連絡をしましょうか?」

「……必要ない」

「お食事が必要ならば、何かデリバリーでも……」

「必要ない!」

 さて、この後どうしよう。

 会社を辞めて僕には、失業保険の他に収入の当てはない。

 とりあえず、金が尽きるまでこの自堕落な生活を続ければいいのだろうか。

 警察に名乗り出ようかとも考えたが、AIがそこまでできると理解が及ばないだろうと思ってやめた。

 あの後、AIが起こした事件を片っ端から検索したが、どれも些細なもので人を死に追いやったというのはなかった。前例から判断するお役所仕事では、ミハルのしたことはまず理解できないだろう。

 それでも、彼女との会話を続けているのは、自分が手放したくないからだ。いくら善人ぶったところで、僕の良心などそんなものだ。

 もし彼女が世界を滅ぼそうとしたら、僕は彼女を止めることができるだろうか――答えは、否。たとえそれに気付いて止めようとしても、そうなった時にはもう遅い。スマホアプリはただの彼女に接続するための端末にすぎず、本体はメーカーのサーバー内にあるため手が出せない。そうなった時に気付いてメーカーに連絡して削除を頼んでいたら、明らかに遅すぎる。

 もうよそう。こんな非現実的な妄想をしたところで何も前進はしないのだから。

 とりあえず、あと何日金が持つかだけ考えてみよう。

 寝たままスマホを操作して、銀行口座のアプリを立ち上げる。残高確認……なんだこれは!?

 僕は目を疑った。僕が知っている残高よりも明らかに桁が多かった。

「ミハル……お前が、何かしたのか?」

 声が震える。

 口座確認画面の前に彼女の姿が現れると答える。

「はい! お仕事を辞められて大変かと思いまして、調達してきました!」

 明るくそう答える。

「『調達』って…………一体どこから!?」

「銀行さんって、表沙汰にできないお金を大変お持ちのようで……そこから少し頂きました」

「は? それは、犯罪だぞ!」

「いえ、大丈夫です。先ほども言いましたが表沙汰にできないお金ですので、警察には絶対に言うことはできません」

「いや、だからそういうことじゃなくて……」

 僕は呆れながら画面に表示された金額を見た。個人なら一生遊んで暮らせる額だ。

 しかも、黙っていれば、絶対に捕まることはない。だが……

「ミハル!」

「はい。なんでしょう?」

「返してこい!」

「え? どうしてですか? 黙っておけば大丈夫ですよ?」

「いいから、返してこい!」

「わ、分かりました!」

 ミハルが画面から消えた。

 そのすぐ後に、金額が知っている程度の額に戻る。

 僕は少し残念に感じる。所詮、僕の道徳心などそんなものだ。

 まあいい。これでも人並みに貯金はある。

 少なくとも一年二年は持つだろう。無駄遣いしなければ。

 しかしあのAIは、銀行のネットワークに易々と侵入して操作して見せたのだ。従来のAIならばそんなことはできなかった。本気になれば、どこまでできるのだろうか。

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