Heaven, O Heaven

故水小辰

Chapter 1: Omen

1-1

「君が噂の悪魔か」

 透き通るようで重い、男とも女ともつかない声。言われた方はというと、耳に心地よく、それでいて脅しのような険しさをも孕んだその声の主を見上げて「げっ」と一言顔をしかめた。

「なんだよ。お前誰だよ」

「聞くまでもなく分かっているのでは?」

 漆喰よりも白い肌、蒼天よりも青い瞳、黄金よりも美しく輝く金色の巻毛。まさしく天からの贈り物としか評しようのない美男子が、眩いばかりに威光を放つ長剣を目の前の青年にまっすぐ突きつけている。見目麗しくないと言えば嘘になる程度には己の顔立ちに自信を持っていた青年も、この美男子を前にしてはおいそれとそれを自慢できないと感じてしまうほどにこの男は美しい——どこからどう見ても万事休すだというのに、青年はそんなことをぼんやりと考えていた。

「私は君という悪を取り除くためにあめより遣わされた者、君に下された天誅だ」

 青い目が青年を真っ直ぐ睨めつける。それはまるで射抜かれているような——いや、このとき本当に射抜かれてしまったのだとこの悪魔、マンセマは思っていた。そして二千年近くもの長い時をかけて、彼はこのときの天使、カミエルをにしたのだ。



 神の子の誕生から千九百八十といくらかの月日を経た夏のある日、マンセマはメモを片手に夕暮れ時の街を歩いていた。書かれているのはここニューヨークのとある住所、そこにあるのはただの高校だ。左脚を軽く引きずり、ジーンズのポケットから錠剤の入れ物を取り出して中身を無造作に口に放り込む姿は安全を好む多くの人々を遠ざけるには十分で、いくら見た目が良くても危なげな男女以外は進んで声をかけようとしない。

 しかし今日は、彼が目指す高校にまさしくそんな男女が——厳密には「危なげ」を脱して普通の若者に戻ろうとしている男女が集まる日だった。

 マンセマはとある学校の前で立ち止まり、目の前の校舎と手元のメモを見比べてにやりと口の端を持ち上げると、跳ねるように入り口の段差を駆け上がった。彼に会いたがっている者がここにいるかもしれないと思うと、上手く利かない脚でも自然と踊り出すというものだ。

 暗い廊下の奥では見るからに重そうな扉が半分だけ開かれ、そこから光と話し声が漏れている。マンセマは扉から黒い巻き毛の頭をひょっこり覗かせ、入り口にいる若い男に声をかけた。

「よっ、お疲れさん」

 男はマンセマに気付くなり、雲一つない青空を思わせる水色の瞳を一瞬丸く見開いた。そしてすぐに剣吞な目つきでマンセマを睨む。

「何をしに来た。マンセマ」

 短く刈り込まれた金髪にどんな白よりも白い肌。迷惑さと訝しさを惜しみなく湛えた眼差しは、マンセマが千年以上愛してやまないカミエルの苛立ちに他ならない。

「何って、見にきたんだよ。今どうしてるかなと思ってさ」

マンセマは極めてさりげなくカミエルの肩に腕を置いた。並ぶと少しだけカミエルの方が背が高いために肘が不自然に持ち上がるが、カミエルがより鬱陶しそうにするならこちらの格好がつかないことぐらい安いものだ。

「いつも通りだ。用がないなら帰ってくれないか」

 案の定、カミエルは滑らかな眉間にしわを寄せる。マンセマは「つれないな」とからかうように呟くと、いかにも自然なタイミングで咳払いをした。

 その音が高い屋根に反響し、だだっ広い体育館の真ん中に小さく寄り集まって話していた一団が何事かとあたりを見回す。彼らの目がマンセマとカミエルに留まるまでそう長くはかからなかった。

 皆カミエルの隣にいる闖入者は誰なのかと訝しげにしている中、二人の若者がマンセマを見るなりあっと声を上げて立ち上がった。

「やっぱりいたか」

 マンセマは楽しげに呟くと、二人に向かって鷹揚に手を振った。一方の二人は全身から怒りを滲ませて、司会の女性が止めるのも聞かずにマンセマに向かって歩いてくる。

「彼らに何をしたんだ、マンセマ」

「何も。ただちょっと、警察に目え付けられてるバイヤーを紹介してやっただけさ」

 訝しむカミエルにマンセマは答える。「ちょっとそこまで歩いてきた」と言うのと全く同じ空気感だったが、カミエルは瞬時に良からぬものを感じ取った——マンセマには悪魔の性とも言える癖がある。彼は手ごろな人間を見つけては誰彼構わず声をかけ、厄介ごとを起こさせてカミエルに後始末をさせるのだ。この癖のせいで二人は正義と悪の追いかけっこをしていた時期があるし、一緒に暮らすようになってからもマンセマは事あるごとに問題を起こしている。さらにたちの悪いことに、人間たちの警戒心が強くなってからというもの、マンセマは絶対に尻尾を出さなくなった。かつてのように堂々と扇動や誘惑をすることはせず、マンセマはあくまでもそれらしいことを仄めかすだけ――あとは人間が勝手に解釈して一線を踏み外すのを待てばいい。

 今怒っている二人の青年もマンセマに乗せられた被害者だった。とはいえ目標を果たす一歩手前で警察と遭遇し、補導だけで済んだたため、まだ害は浅い方ではあるのだが。

 そう、この高校の体育館は週に一度、道を踏み外した青少年の更生を助けるための集会所に姿を変える。カミエルは会を主催するボランティアの一員として毎週ここに通っているのだ。

「けどよお、俺だって、まさかあいつらが会いに行く日にサツも動くなんて思いもしなかったんだよ。でもいいじゃねえか、犯罪者になる前にこうしてに出会えたんだからさ」

 二人が怒り心頭で怒鳴り散らす言葉を無視してマンセマはカミエルに耳打ちし、口の端を持ち上げる。これはもちろん青年たちにも聞こえていて、二人は揃って「おい!」と声を荒げた。

「何様のつもりだお前⁉︎ 俺たちがこうなったのはお前のせいじゃねえか!」

「俺の言うことを信じて売人なんぞに会いに行ったお前らが悪いんだ。誘いに乗らず真っ当に生きてる奴だっているってのに、その強さがないことを他人のせいにするなんてとんだお笑い草だぜ」

 マンセマは意地悪く笑って言い返した。挑発するような口ぶりはどこか勝ち誇っているようでもあり、冷たささえ感じさせる。

「そうだ、俺の好きな言葉があるんだが、お前ら知りたいか? 東洋の言葉なんだがな、『因果応報』ってんだ——道を守るも外れるもお前ら次第、サツに捕まって母ちゃん泣かせて補導クラブに放り込まれたのも、全部てめえらが悪いんだよ」

 ひょうひょうと語るマンセマにカミエルは思わずぞくりとした。余計にカッとなった青年たちに、一体彼はどう見えているのだろう——今、カミエルの目には、巻き毛の間から歪んだ角をのぞかせ、忌まわしい尻尾を大喜びで振り回す異形の魔物が見えている。マンセマはただ嫌がらせをして楽しむだけではなく、やはり正真正銘の悪魔なのだと、こういうときにカミエルは身に染みて感じるのだった。

 とはいえ、痛いところを突かれた青年二人がそんなことを気にするはずもない。気にしていたとしても、どのみち彼らは引き下がらなかっただろう——その証拠に、二人は間髪入れずにマンセマに殴りかかった。

「やめなさい!」

 カミエルは大声を上げて両者の間に割って入ったが、当のマンセマはカミエルの背後でへらへら笑っている。

「ジョン、デイヴ、それに君も、喧嘩はやめるんだ。何のためにここに来たのかよく考えなさい……」

 言いかけたカミエルはしかし、唐突に鳩尾にめり込んだ拳にウッと呻いてしゃがみ込んでしまった。盾の消えたマンセマに青年たちは再び殴りかかり、マンセマは上下左右から襲い来る拳骨を楽々と避けては笑っている。マンセマは司会の女性が走ってくるのを横目で認めると、そのまま素早く体育館を出ていった。もちろんジョンとデイヴの二人も、怒鳴りながら後を追って飛び出していく。

 カミエルは立ち上がると、司会役の彼女にここにいるよう告げた。

「シンディは会の続きを。あいつらは私が捕まえる」

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