警備隊の新しい隊長には、

 警備隊の新しい隊長には、まことしやかな噂があった。


 あの金髪の女傑は毎晩、ちがった男を誘惑して一夜を共にしている──


 強制収容所では年老いた賄い婦を除けば、女性はクロエ・シャルパンティエだけだ。女っ気の乏しい環境で、誰かが吹聴した単なる法螺話かもしれない。それでも収容所の職員、獄吏、警備隊員の多くは彼女と親密になりたいと願っていたろう。クロエはまだ若く、女盛りだ。勝気なところが玉に瑕であるが、完璧に近い端麗な容姿がそれを覆い隠していた。

 収容所にいる男たちは遠くからクロエに熱い眼差しを送り、ときに視姦し、または崇めていた。タウベルトもそんなひとりだった。彼はマグナスレーベン帝国の最高学府を修了したのち、帝国軍の主計科で長らくカネ勘定を任されてきた男だ。丸顔で微笑みを絶やさぬ温和な人柄。そのタウベルトがイシュラーバードの収容所へ左遷されたのは、軍費の横領が発覚したからである。実のところは上官の指示による不正行為だったが、各部門の予算を水増しして彼が資金を操作していたのは変わりない。さいわい告訴は免れた。罪に問われたのは件に関わったなかでも末端の者たちだ。その哀れな人身御供は全員が処刑された。タウベルトも命だけは助かったものの、更迭され帝国外の僻地へ飛ばされたのだった。

 以来、妻にも愛人にも愛想を尽かされ、本国の子供とも会えなくなったタウベルトは孤独だった。人生のどん底。みじめな最後が見えてきた。もう信じられるのはカネしかない。だからランガー総督にゲルヴァークーヘンの横流しに加担するよう持ちかけられたときも了承した。組織ぐるみゆえ、今回は露見する可能性が低いと考えたのだ。が、どんな目論見にも破綻の危険は潜んでいる。そしてどうやら、タウベルトは運も尽きていた。

 その日の午後、タウベルトが食堂から会計課の事務室へ戻ると、机の上に紙片が置かれていた。

 折りたたまれた紙を開く。警備隊の長であるクロエからのメッセージだった。夜半すぎ、彼女の私室を訪れるようにとの指示が書かれてあった。

 真っ先にタウベルトの頭に浮かんだのは例の噂である。しかし彼は、すぐにばかな考えを頭から追い払った。そんなわけない。きっと予算増額の直談判だ。前に収容所にいたノーム族の魔術師が脱走して以来、警備隊は冷遇の憂き目に遭っている。彼らはワイバーンの飼育や危険手当などで、ほかの部署より費用が嵩む。予算を締めつけられた現状では活動に支障が出るし、それをなんとかせよというのだろう。やれやれだ。

 残務整理を終え、夕食を摂ったあとタウベルトは主棟の二階へ足を運んだ。念のため身だしなみを整えたのは、さもしい男の下心である。

 クロエは直接の上司ではなかったし、さして気分も重くなかった。彼女の私室の場所は知っていた。部屋の扉をノックする。すぐに扉の向こうからなかへ入るよう促す声が聞こえた。

 扉を開くと間仕切りがあり、部屋の様子は窺えなかった。


「会計課のタウベルトです。お呼びとのことですが」

「きたのね。奥へ入ってちょうだい」


 タウベルトは間仕切りを回り込んで言われた通りにした。するとそこは、自分たちが使っている職員の個室とはまるでちがった作りであるのにおどろいた。まず広さが異なる。ここは二間が区切られたつづき部屋だ。居間のほうには片隅に暖炉があり、壁全体が洒落た壁紙で飾られていた。床にはイシュラーバード特産の敷物が広げてある。数々の調度品はどれも帝国風。きっと本国からわざわざ取り寄せたにちがいない。警備隊の隊長は要職だが、それにしては贅沢が過ぎるとタウベルトは思った。


「座って待っていて」


 物書き用の小卓に着いて、タウベルトに背を向けたままのクロエが言う。その足下には椰子の葉の繊維を編んだ小さな籠が置いてあり、内で変わった毛色の仔猫が丸くなっていた。

 タウベルトは室の中央にあるテーブルへと歩み寄り、いかにも高級そうな猫足の椅子に腰掛けた。まもなく手をつけている用を済ませたクロエが、彼のところへやってくる。

 暖炉の揺らめく炎がクロエを照らす。タウベルトは思わず見とれた。

 薄桃色の光沢があるナイトガウンは絹で織られたのだろう。その下は胸ぐりの大きなドレス。紺地で丈が短く、すらりとした両足が剥き出しだ。誘っている。そう取られても仕方のない恰好だった。


「悪いわね、こんな夜遅くに」


 とクロエ。


「いえ。それで、どういった──」

「野暮用じゃないの。私的な話よ。そうかまえないで」


 クロエは言うと、タウベルトが座っている椅子の肘掛けに手をかけた。そのまま彼女が力を込めると、椅子が音を立てて向きを変えた。

 唖然となるタウベルト。いま彼の正面には、クロエの豊満な胸が間近にあった。さらにそれが近づいてくる。身を乗り出してきたクロエの体臭と香水が混ざった甘い匂いを嗅ぎ、タウベルトはごくりと唾を飲み込んだ。それからクロエは椅子の背もたれに両手を置いて、


「でもその前に、いいものを見せてあげる」


 タウベルトの耳元で囁き、クロエがナイトガウンの帯を解いた。寄り添い合うふたつの乳房の谷間に、細い指が挿し込まれる。ふたたびそれが出てくると、クロエの指はなにかをつまんでいた。

 どういうつもりだろう。戸惑いつつも便利なポケットだなとタウベルトは思った。彼には最初、クロエが持っているものがなんだかわからなかった。黒く、硬そうななにか。短剣の形をした徽章だと気づいたのは、しばらくしてからだった。


「それは、シュバルツァークリンゲ……」

「よかった。知っていたのね」


 椅子に座ったタウベルトがおそるおそる見あげると、クロエは冷たい微笑を湛えていた。

 帝国軍の騎士はいずれも、叙任に際して皇帝より騎士の証を下賜される。碧の騎士は拍車を模した徽章、皚の騎士は盾の徽章という具合にだ。しかし話に聞いたことはあったが、タウベルトは黒い短剣の徽章などを初めて見た。なぜならそれは、ごく少数の選ばれた者にしか与えられないものなのだ。

 タウベルトは顔から血の気が引くのを感じた。黒い短剣の徽章──シュバルツァークリンゲを持っているとすれば、クロエはただの騎士ではない。そう、この女は黯の騎士だ。帝国の影の部分で踊る、非情な暗殺集団。

 クロエはいったんタウベルトから離れると、背の低い戸棚の上に置いてあった果実酒の瓶と杯を手に戻ってきた。テーブルのもう一脚の椅子に腰をおろし、彼女は銀のゴブレットへ黄金色の酒を注いだ。そうして椅子の背もたれに身体を預け、足を組む。


「いいこと、会計主任さん。わたしが身分を明かしたのは、もう粗方の調べがついているからよ。そのうえでこちらの質問に答えなさい」


 悪い夢を見ているようだった。なぜ黯の騎士が自分などの前へ。いや、心当たりは充分にある。脛に傷を持つタウベルトは、暖炉の薪が爆ぜる音で我に返った。


「黯の騎士……あなたが……」

「そうよ、だから慎重に言葉を選びなさい」

「な、なんのことでしょうか」

「とぼけるのはよして。消えたゲルヴァークーヘン。不相応な額の資産を持つ強制収容所の職員。それらを鑑みれば、なにが起こっているのかはすぐにわかるわ」

「いえ、わたしは──」

「安心なさい。わたしの狙いは首謀者のランガーだけよ。そのために協力してほしいの。反逆行為に手を染めているランガーの肩を持つか、わたしの手伝いをして帝国への忠誠心を示すのか、ふたつにひとつ。簡単な選択でしょう?」


 もし断れば、どうなるのだろう。そのタウベルトの胸裏にわいた疑問を、クロエは彼の心を読んだかに代弁した。


「もし断れば、強制収容所のつまらない仕事に就いていた職員がひとり失踪して、欠員が出ることになるわね。でも人員の補充なんてどうとでもなる。わたしはどちらでもかまわない」

「本国にいる子供が病気なのです。高額な治療費がかかるため、とても給料だけでは……」

「お気の毒ね」


 クロエが自分の手の爪を見ながらそう言う。もう逃げ道はない。タウベルトは観念した。


「なにをお望みですか」

「裏帳簿の写し。ゲルヴァークーヘンを買った顧客の名簿も。無理なら、それを手にできる者の名前を教えなさい」

「帳簿はその折りごとに、わたしがつけています。顧客の名簿はランガー総督がお持ちかと。帳簿の写しは用意できますが、名簿は総督自身が保管しているため、わたしでは持ち出すのは不可能です」

「どれほどの人間が関わっているの?」

「わたしの知る限り、三人です。ランガー総督とわたし、それに外部との連絡役の者がひとり」

「誰と連絡をつけているの?」

「知りません。役割は分担されているので」


 するとクロエは氷のような眼差しと沈黙とで追求してきた。タウベルトはあわてて返答に付け足した。


「ほんとうです! ランガー総督はそうして、不要に情報が漏れるのを防いでいるのです」


 クロエは無言のまま、酒杯に口をつけた。


「いいわ。こちらへ協力したあなたの姿勢は、本国へ報告しておきます。決して悪いようにはならないでしょう」

「あ、ありがとうございます」


 タウベルトは、まるでその場で涙を流さんばかりに感極まっている。裏切るなと念を押すまでもあるまい。いずれ彼は、こことは別な強制収容所で生涯を終えることになるだろう。もちろん囚人として。


「今日は以上よ。またなにかあれば話を訊くわ。さあ、わたしの部屋から出ていって」


 タウベルトが姿を消す。クロエは酒杯に酒をつぎ足した。

 このていどだったか。一味のひとりから不正行為の言質は取りつけたものの、しかし証拠をそろえるのは骨が折れそうだ。裏帳簿と顧客名簿は、おそらくランガー総督が使っている官舎にあるのだ。主棟とは別棟となっている建物で、クロエは以前、そこへ潜入を試みた。しかし高度な魔術の罠が何重にも張り巡らせてあったので諦めたのだ。

 決め手が要る。やはり、あのランガーの小さな城へ乗り込む必要がありそうだった。

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