神はなぜ人間の性別を

 神はなぜ人間の性別をふたつに別けたのか。

 もちろん奥深い神意がおわすにちがいない。考えても無駄だ。それは真理であり、人が疑念を抱くことすらおこがましい。

 男と女はこの世界にあって対をなす存在で、不足を補い合いながら両者は生存しうる。互いに惹かれ合い、ときには憎しみ合うものの、決して離れて生きることは適わない。

 密接にして対照的となる男女の最も重要な接点が、性交であることに疑いを持つ者はいまい。目的は子孫を残すため。いわゆる本能的な性行動である。あけすけに表現するならば、食って、寝て、やる。人間はその欲求に縛られて生きているのだから。

 ならば異性に惹かれるのも、性欲に抗えないのも、すべて生物として繁殖を効率よく行うためなのだろうか。我ら定命の者は至高神の周到な計画によって操られているのか。そのように考えると、納得がゆかない部分もあるにはあった。

 そういえば近頃は無神論者というのがいて、生命の発祥を神とは無関係と信ずる輩がいるらしい。ひいては神秘主義を否定し、人が宗教を広めるための便宜で神を作ったとも。ばかな奴らだとローゼンヴァッフェは思う。なんと身勝手で無知蒙昧な。まさに神をも恐れぬ凡愚にはあきれるばかりだ。

 火が燃える、水が凍る、嵐が吹き荒れ、空に雷光が奔る。人間には説明できない現象がこの世にはいくらでもある。理解を超越したもの、遠く考えが及ばない種々の事象。魔術もそのひとつではないか。エーテルを源として人があやかっている魔術は、神の御業なしでは証明できない。実際、ローゼンヴァッフェは魔術を司るミロワ神の恩恵に浴している。

 世を知ろしめす神は、たしかに存在する。


 それは認めよう。しかし唯一、気にくわないのは、このヨアヒム・ローゼンヴァッフェが神に生み出された側であり、天地万象のうちの矮小なひと粒にすぎないという点だ──


 イシュラーバードの街角にある娼館の一室。寝台に寝そべって天井を見あげるローゼンヴァッフェの頭には、とりとめもなく考えが浮かんだ。女を抱いたあとはいつもこうだった。けだるいなか、賢者気取りでつい思索に耽ってしまう。その果てはいつも同じ。正鵠を得たことなどはいちどもなく、つねに自己嫌悪で終わるのだ。

 ふと、ローゼンヴァッフェの隣にいる女が身を起こした。彼女はなじみの娼婦で名はペルラ。ダークエルフだ。この黒い真珠は細身で肉は薄かったが、色事に長けている。きっと軽く二〇〇年は生きているにちがいない。男を歓ばせることに関しては天才的な技術を持っていた。

 淫売は太古からの由緒ある職業で、まちがいなく人が死に絶えるまで存在するだろう。それを賤職だと誹る者は愚かだ。とはいえ、一時的な快楽を得るのに割高なカネを要求されるのが難点である。

 さいわい最近のローゼンヴァッフェは稼業がうまくまわって羽振りがよかった。ゆえに今日も昼日中から娼館へ足を運んだのである。つい先日は、南のオーリアよりきた連中からカネをふんだくってやった。マグナスレーベン帝国の強制収容所へ潜入するという無謀を冒したのがひとりと、さらにそれを救出しにきたらしいふたり。実におめでたい連中だった。どちらもカネを持って、たてつづけにこちらの懐へと転がり込んできたのだから、笑いがとまらない。

 ペルラが象牙で作った煙管の火皿に煙草の葉を詰め、燭台から火を移した。深く吸煙して、彼女は大量の紫煙を吐き出す。ただの煙草ではなかった。水で溶いたアフヨンと呼ばれる麻薬を染みこませた禁制品だ。

 ローゼンヴァッフェもペルラに勧められた煙管の吸い口をくわえた。まもなく全身が恍惚で包まれ、理智が蕩けて消えていった。

 自分以外の他人を見下げ、食い物にしてなにが悪い。才能を持て余し、イシュラーバードの辺土でくすぶっていることの、なにが悪い。帝国からは逃げ出したんじゃない。おれは自分であの国を捨てたんだ。

 女と麻薬は、いつでもローゼンヴァッフェの頭のなかから苦渋を追い払ってくれる最良の友人だった。


「ねえ、ヨアヒム──」


 ペルラが言った。


「あんたの服が光ってる」


 ローゼンヴァッフェはちらりとダークエルフの娼婦へ目をやった。なにをばかな。この女、たちの悪い麻薬でとうとう頭がいかれたか。

 ローゼンヴァッフェは寝台で横になったまま首だけを持ちあげ、ペルラと行為に及ぶ前に脱いだ自分の服を探した。すると床に錆色のローブが放り出してあった。それを目にした彼は眉を寄せる。

 まてよ。おれにも見える。たしかに、自分のローブがぼんやりと光っているのが。

 裸身を起こし、まじまじとローブを見つめるローゼンヴァッフェ。その暗赤の布地を越して明滅する輝きは、妖しい夜光虫のように揺れている。寝台から降りたローゼンヴァッフェは段通を踏んでよろよろと歩き、着古したローブを拾った。裏地の隠しを手で探る。謎の光の正体がわかった。念話石だ。

 ローゼンヴァッフェは丸い念話石を手に取ってから、それがノア・デイモンに渡した片割れだと思い出す。光を放っているということは、誰かがこちらへテレパシーを送っているのだ。

 しかしいったい、どこのどいつが。デイモンではあるまい。哀れな彼がこの期におよんで生きているとは考えられなった。


「誰だ」


 訝りつつ、ローゼンヴァッフェは念話石を握りしめて見えない相手に念を送った。


『なんだ、いたのか。ずっと呼びかけていたんだぞ』


 返答はすぐにきた。脳裏で響いた声に、ローゼンヴァッフェはしばらく二の句が継げなかった。


「まさかおまえ、デイモンか!?」

『ああ。誰だと思った?』

「うそだろう……無事だったのか」

『無事とは言えんな。あれから帝国の警備隊に捕まった。が、とりあえずはまだ生きてる』

「そ、そうか。ああ、いや、もちろんおれは信じていたぞ。おまえが簡単にくたばるわけはないからな。──で、うまく逃げ出したようだな」

『いいや』

「なに? じゃあ、いまどこにいるんだ」

『強制収容所だ』

「状況がよくわからんぞ。捕まってるのなら、なぜ念話石が手元にある」

『一時は念話石も奪われた。だが、そのあとでまた返された』


 それを聞いたローゼンヴァッフェの顔が、はっとこわばる。


「おいデイモン、そいつは──」

『わかってる。なにかの罠だと言いたいんだろう』


 ノアは手短にかいつまんで、クロエから念話石を渡された経緯をローゼンヴァッフェへ説明した。しかしローゼンヴァッフェは腑に落ちない様子である。当然だったろう。


「デイモンおまえ、その女を信じるのか。帝国の密偵など、この世でいちばん信用のならん相手だぞ。奴らに脅されでもして、おれをはめようとしてるんじゃあるまいな」

『ばかを言え。それで誰が得をする。正直おれも、クロエが念話石を渡した意図についてはよくわからん。しかしマグナスレーベンにしてみれば、ここにある濃化エーテル精製所のことは公にしたくないはずだ。わざわざ外部と連絡を取らせるはずがない』

「あるいは、もうすでに精製所の重要性が薄まっているのかもしれんな」


 クロエという帝国の密偵の真意はどこにあるのか。ローゼンヴァッフェは束の間、考えをめぐらせたが見当もつかなかった。混迷してきた様相をなんとか整理しようと、彼は頭をがりがり掻いた。


「まあ、なんにせよおまえが生きていたのはよろこばしい」

『あんたは収容所の暮らしぶりを知らないからそう言えるんだ。いますぐに逃げ出したい、なんとかならないか』

「それについては朗報がある。実はな、数日前にオーリアからおまえを捜しに人がきたんだ」

『オーリアからだと? いったい誰が』

「国王騎士団だ。クリスピンとかいういけすかない野郎と、おまけの従騎士がひとり」

『リアムが……。そのふたりだけか』

「そうだ。いまこちらでは、おまえを救い出す計画を立てている最中だ」


 ローゼンヴァッフェが答えると、遠く離れた場所にいるノアの落胆した念が伝わってきた。


『あんたを含めても三人か。それだけでなにができる』

「いや、ほかにクリスピンは駐在大使の協力を得ているようだ。イシュラーバードの街で、帝国に反感を抱いているドワーフたちも味方につけた。あのクリスピンという男、態度は気に食わんがなかなかのやり手だな。総勢で二〇人以上にはなるぞ」

『まさか、強制収容所を襲撃でもするつもりか』

「計画はまだ詰めている段階だ。しかし大筋では、それに近い。まずドワーフどもがイシュラーバードの街で派手に騒動を起こし、収容所の警備隊をおびき出す。そうしてその隙を少人数の別働隊で衝いて、おまえを救出する運びとなるだろう」

『強攻策だな』

「ほかに代案があるなら聞くが? そうだ、強制収容所内の様子をよく知りたい。建物の配置や、警備の状況。それがわかれば遂行がより確実になる」

『待て──』


 ふいにノアが言った。


『こっちはあまり長く話せないんだ。また連絡する』


 それきり、ノアからの念話は途絶えた。

 ローゼンヴァッフェはしばらく自分のほうから念を送ってみたが、応答はなかった。

 ノアが捕虜の身となっているのならば、おそらく人目を忍んで連絡してきたにちがいない。向こうでなにかあったのか。もどかしい不安がローゼンヴァッフェの胸をよぎった。が、彼はすぐに気を取り直した。もしそうだとしたら、どうする。どうもしない。あいつの命数がそこで尽きたというだけのことだ。なんらこちらの痛手とはならない。

 手中の念話石を見つめるローゼンヴァッフェの顔には、酷薄な笑みが浮かんでいた。その彼の様子をずっと眺めていたペルラが、


「あんた、またやばいことに首を突っ込んでるみたいだね」

「どうしてわかる?」

「顔を見りゃわかるよ」


 ローゼンヴァッフェは寝台へ戻ると、なにも言わず仰向けになっているペルラの両腿に跨がった。


「ちょっと、もう一回するならカネをもらうよ」


 身をよじって逃れようとするペルラ。


「カネに汚い売女め。そうだペルラ、おまえこの世で、カネで手に入れられないものがあると思うか」

「あたしの知ってる限り、そんなものはないね」

「値のつけられんものはあるだろう。たとえば自分の命、信念、血筋──」

「それは値がつけられないのとはちがうね。価値がないんだ。カネで買えないものは、みんなそうだよ」


 ローゼンヴァッフェはちょっと驚いて自分の下にいるペルラを見た。この女、ごくたまにだが含蓄のある言葉を口にする。ダークエルフ族は母権社会だという。文化形態が異なるのに加え、彼女たちは大陸に住む者らから邪神崇拝の異端と見られている。それゆえダークエルフが他民族と関わるときには先入観から誤解されがちだ。ペルラの独創的な思考もそのせいだろうか。

 ローゼンヴァッフェはペルラの胸にかかっていた長い銀髪をそっと指で払いのけた。あらわとなった小ぶりな胸をきつく揉みしだく。するとペルラはあばらの浮いた華奢な胴をのけぞらせ、吐息を漏らしはじめた。


「どうやらおまえとおれの価値観には大きな相違があるようだな」


 とローゼンヴァッフェ。


「えらそうに……あんたが何様だってのよ」

「おれはこう見えても帝国貴族の生まれだぞ」

「へえ、ご立派。特権を持つはずの貴族様が、商売女を相手に説教をたれてるのかい。落ちぶれたもんだね」

「たしかにな。高貴な血族に生まれる運命は、カネで買えるものじゃない。とはいえ門閥の末子などみじめなものだ。家督を相続できなければ平民と変わらない暮らししかできん。おれはそれがいやで帝国を去ったのさ」

「ああ、そう」


 ペルラはローゼンヴァッフェの身の上にまるで興味を示さなかった。彼女は寝台の横に置かれた小卓へ手のばし、火の消えた煙管を取った。


「それで、今度はなにをやらかそうっての」

「オーリア王国に恩を売って、おれは王宮魔術師の地位を手に入れる」

「あんたが王宮魔術師だって?」


 急にペルラが弾けたように笑い出す。そうして彼女はひとしきり笑ったあと、


「じゃあいつか、あたしをお城に呼んでよ。王宮娼婦になってあげるからさ。オーリアの王様も大臣も貴族も、みんなまとめて相手してやるよ」

「いいだろう。おまえが望むなら、この肥溜めから引き揚げてやるぞ」


 嘘でも夢物語でもない。ローゼンヴァッフェは本気だった。

 すでにオーリアには伝手がある。オーリア王国は濃化エーテルを手にしていた。もちろん不正規な手段でだ。その仲介をしたのが、誰あろうローゼンヴァッフェである。

 以前、酒場で知り合った強制収容所の職員が、同郷のローゼンヴァッフェへ濃化エーテルについてうっかり口をすべらせたのがはじまりだった。すぐにローゼンヴァッフェはその男と、駐在大使のカントーニへ濃化エーテルの横流しを持ちかけた。念のため、あいだに何人か挟んで身許はばれないようにしたが、余計な経費を差し引いても儲けは大きかった。相互にとって有益な取引だったのはまちがいない。それに加えてノアの件だ。彼が強制収容所へ潜入する手引きを任された時点で、ローゼンヴァッフェはオーリアから信用され、重用されているという自負があった。任務は失敗となったが、そのあとでノアを救ったとなれば、オーリア王国の内幕へ入り込むには十分な功績だろう。

 ローゼンヴァッフェは自らの野望が着々と進行するのを感じていた。これを好機といわずになんという。やっとめぐってきた機会だ。絶対に逃すものか。

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