「起きろ、デイモン」

「起きろ、デイモン」


 声に呼ばれ目を覚ました。

 寝台で薄い毛布にくるまっていたノアは束の間、馴染みのない室内を見渡した。そして少しのあと、ああそうだ、自分はいま〈夢の国〉亭に宿泊しているのだと思い出す。

 勝手にノアの部屋へ入ってきたローゼンヴァッフェが寝台のそばを通りすぎた。すると、食欲をそそる匂い。ローゼンヴァッフェは室内の隅にある小卓まで歩くと、そこに料理が載った盆を置いた。昨晩にも食べた平たいパンと豆のスプレッド、にんにく風味のヨーグルトがかかったジャガイモの素揚げ、まるで木炭の破片みたいなブラックレーズンと、あとは砂糖をたっぷり入れた熱いお茶。


「朝飯だ」


 とローゼンヴァッフェ。寝台で半身を起こしたノアはひとり分の朝食をちらりと見てから、ローゼンヴァッフェに目を移した。


「あんたの分は?」

「おれは外で食ってきた」


 言って、ローゼンヴァッフェがノアへなにかを投げつける。

 財布だった。ノアの。

 いつの間に持ち出したのだろうか。中身はオーリアを発つとき、この任務へ就くために与えられた支度金だったが、油断のならない奴だ。これからは寝るときも財布を身近におくことにしようとノアは心に決めた。

 ローゼンヴァッフェが窓の鎧戸を開けると、室内に朝陽が射し込み一気に明るくなる。ノアはまぶしさに目を細めつつ寝台から抜け出た。そこへは入れ替わりにローゼンヴァッフェが腰掛けた。

 小卓の椅子に座ったノアは、まず真っ黒な色をした茶をすすった。おどろくほど甘かった。そしてスプレッドをつけたパンを囓ると、こちらは重労働に従事する者へ向けた味つけだ。しょっぱい。なぜこうも極端なんだ。食事の味に関してはうるさくないノアだったが、イシュラーバードに滞在するあいだ、このようなものを口にしなければならないのかと思い、彼の気分は朝から沈んだ。


「そろそろ聞かせてくれ。おれはいったい、ここでなにをすればいいんだ」

「ふむ。そうだな……」


 ローゼンヴァッフェは少し考え込むと、窓のほうへ顔を向けた。そうして、ノアにあれが見えるかと言った。問われたノアは、もぐもぐと口を動かしながら身をよじって窓の外を見た。

 北向きの窓からは、山頂から薄く煙を吐いている山が望めた。なだらかな山だ。標高は七〇〇メートルもないだろう。


「火山か」


 とノア。


「そうだ。おまえはあそこへゆく」

「なにをしに?」

「調査だ。あの山の中腹にはマッチムト鉱山がある。マグナスレーベン帝国がドワーフ族に採掘権料を払い、経済活動を認められている場所だ。そこでどうも、よからぬことが起こっているらしい」

「よからぬこととは?」

「ばかかおまえは。それがわからんから調べにゆくんだ」


 ノアは椅子から立ちあがり、窓の近くへと歩いた。


「どのあたりだ」

「あとで地図を見せてやる」


 ローゼンヴァッフェは寝台から手をのばして、もう冷めたジャガイモの素揚げをひとつつまみ食いした。


「だがちょっとした問題があってな。マッチムト鉱山とその周辺は、ハイランドにおける帝国の飛地と言っていい。外部から無関係な人間が入り込んだとなれば、まずいことになる」

「なるほど」


 だから、マントバーンはおれをここによこしたわけか。ノアは納得した。

 オーリアでハートレイ将軍が言っていた騎士身分剥奪も、この不正規活動のためだ。まさしく遍歴に出て食い扶持を浪費するばかりのノアは、打ってつけだった。危険な任務に就かせ、うまくゆけばしめたもの。だがもし彼が帝国側に捕まったとしても、オーリアは知らぬ存ぜぬでなんの行動も起こさないだろう。つまりは捨て石だ。


「登山の経験は?」


 ローゼンヴァッフェが訊いた。


「おれはローランドからここまで登ってきたぞ」

「そいつはただの野掛けだな。マッチムト鉱山へ近づくために踏み分け道は使えん。帝国の奴らに見つからないよう、岩壁をよじ登って潜入する必要がある」

「なら道具が要るな」

「そうだな。今日はこのあと──」


 ローゼンヴァッフェはふいに口を閉じた。ノアに手で黙れと制されたからだった。

 外の廊下に人の気配がした。窓際にいたノアは足音を忍ばせ、部屋の出入口まで歩いた。そして、彼はそこの扉をいきなり開けた。

 誰もいない、と思いきや目線の下に人がいた。ササラだった。厳しい表情のノアと鉢合わせとなり、驚いた彼女は、まごついた様子でしばらく言葉をなくした。


「立ち聞きか?」


 ササラを見おろし、ノアが言う。


「な、なんのことよ──」


 口ではそう言ったものの、ササラはあきらかに動揺していた。


「あたしはヨアヒムに用があるんだ。溜まってる店のツケの取り立てだよ」


 ササラはノアの脇を抜けて室内へ入ると、今日こそは払ってもらうよとローゼンヴァッフェに詰め寄った。

 気の強い女ドワーフを前に、寝台に座っていたローゼンヴァッフェが辟易したように鼻を鳴らす。そうして彼は、


「仕方がない。おいデイモン、払ってやれ」

「ふざけるな。なんでおれが」


 これにはさすがのノアも腹に据えかねた。しかし当のローゼンヴァッフェは涼しい顔だ。


「なんでって、おれはいまカネを持っていない。おまえは持っている。だからこの場を収めるために、とりあえずおまえが払え。あとで絶対に返す」


 身勝手かつ信頼性のまったくない言い分にノアはあきれた。


「どっちでもいいから早くしてよ、あたしは暇じゃないんだ!」

「どうせおまえのカネじゃないんだろう。なにをためらう必要がある。このドケチめ」


 ササラとローゼンヴァッフェの両方から同時にわめき立てられては、抗弁する気も失せた。ノアは渋々、革の財布を開きカネを支払った。

 ササラが帰るとふたりはすぐに市場へと向かった。そこはノアが、初めてイシュラーバードの街へ入ったときに訪れた露店市場である。

 あいかわらず混んでいる。喧噪と砂埃。いや、これは火山灰だ。そして汗臭い人いきれが不快だった。ノアとローゼンヴァッフェはそこでさまざまな品物を買い込んだ。ハンマーや楔といった本格的な登山用具にはじまり、ロープ、火口、携帯糧食、毛布、小ぶりな剣──それらを運ぶための大きくて丈夫な背嚢も買った。支払いはもちろんノアである。

 昼は露店で出されていたミルク粥で済ませ、午後からは街に戻った。そちらにも商店があり、ノアがローゼンヴァッフェに連れられていったのは魔術用具の専門店だった。ラクスフェルドの旧市街にも似たような店があった。主に魔術に使う触媒などを扱うそこでは、やはり魔術スクロールも売られていた。潜入に必要と思われる諸々なスクロールをまとめ買いして、ふたりは店をあとにした。

 午後遅くに〈夢の国〉亭へ戻る道すがら、ノアはローゼンヴァッフェに訊ねた。


「あんたは魔術師だよな」

「どこぞの王子様に見えるか」


 と仏頂面でローゼンヴァッフェ。


「自分で魔術スクロールを作れるんだろう?」

「ああ。造作もない」

「じゃあ、いま買ったのよりもっと役に立つのを用意してくれ。瞬間的に遠くの場所へ移動するとか、空を飛べるのとか、ほかにも使えそうなのがあるんじゃないのか」

「ド素人はこれだから困る──」


 ローゼンヴァッフェは言うと、うんざりした冷たい目をノアに向けた。


「いいか、魔術は空気中にあるエーテルを使用するんだ。強力な魔術を使えば、それだけエーテルも大量に消費される。これは魔術スクロールに関しても同じだ」

「そのくらい知ってる」

「おおっと、そいつは失礼。では魔術にお詳しい凡人のおまえは、いま自分の周囲にあるエーテルを感じるか?」

「いちいち勘に障る言い方はよせ」

「エーテルを感じることができるのか、できないのか、どっちなんだ」


 喧嘩腰でたたみかけるローゼンヴァッフェにノアは嫌気が差し、空を仰いで降参した。


「いいや、さっぱりだ」

「ならばよく聞け。おれを含め、まともな魔術師であれば誰でも身近なエーテルの流れを感知できる。すなわち魔術師のいる近くで呪文なりスクロールを使えば、エーテルの密度が変化して相手に察知されるということだ。強力なものであればあるほど、その可能性は高まる。朝にも話したが、おまえは敵地へ秘密裏に潜入するんだぞ。ゆえに今回は発見される危険を回避するためにも、万全を期してエーテルを大量消費する高度な呪文のスクロールは使うべきではない。べつにおまえの身の安全など、どうでもいい。だがな、これが失敗に終われば、オーリアからおれに支払われるはずの報酬もパーになる。だから言ってるんだ。わかったか?」


 高慢ちきという言葉はこいつのためにあるのだろう。ローゼンヴァッフェの言うことには一応、筋が通っていた。しかし、ノアには少しばかり慎重すぎるとも思えた。


「マッチムト鉱山には魔術師なんかいないだろう」


 するとローゼンヴァッフェは首を横に振った。


「いや、いる」

「誰だ。知り合いでもいるのか?」

「知り合いではないが、帝国では名の通った魔術師だ。ランガー総督。マッチムト鉱山には強制収容所が併設されている。本国から連れてきた重犯罪者に鉱石を掘らせているのさ。奴はそこの所長でもある」

「ランガー……」


 ノアは誰に言うでもなく、顔も見たことのない魔術師の名を口にした。

 ランガーという人物の素性はわからないものの、たしかに魔術師は手に余る存在だった。それと敵対するおそれがあるのならば、避けるのが最善である。なぜなら魔術へ対抗できるのは唯一、魔術しかないからだ。


「帝国府から高級外交官として派遣されるほどの男だ。さぞや魔術にも長けているにちがいない。まあ、おれほどではないだろうがな」


 とローゼンヴァッフェ。口が悪く、自信家。おまけにカネに汚いときた。ここまでくると清々しい。ノアはいま横を歩いているローゼンヴァッフェという男に、敬愛じみた好奇心を抱きはじめた。


「いっそのこと、おれの代わりにあんたがいったらどうだ」

「冗談じゃない。おれは肉体労働はせん。疲れるからな」

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