ラクスフェルドを出発して

 ラクスフェルドを出発して二日目の夕方、ノアは国境にさしかかった。このあたりまでくるともう整備された街道は途切れ、踏み分け道しかなくなっている。

 オーリア王国の北の果て。遠くでそびえていたハイランドの山脈が、ずいぶんと大きくなってきた。

 見渡すかぎりの平坦な原野には、先人たちが踏み固めた道がつづいている。このような辺土で馬だけを相棒に日がな一日を過ごしていると、少し前の遍歴に戻ったようだ。それは気ままな旅というには過酷な日々だった。ノアはそのころ、オーリア南方で貴族同士の諍いに巻き込まれ、西では外国の私掠船に悩む貿易都市オーミの手助けをした。カネと引き換えに山賊や怪物の退治をしたことも何度かある。そういったいざこざに首を突っ込んだのは、いずれも彼自身が望んだからである。

 三年前のオーリア変革後、国を追われたノアはなかば自暴自棄だった。将来の希望を失い、人間不信に陥っていた。さながら飢えた野良犬。各地をさまよい、気にくわないものには噛みつくといった有様だ。が、それによって数々の修羅場をくぐり、胆力が鍛えられたのは思わぬ結果といえる。

 マントバーンが自分になにをさせようとしているのかは、皆目見当がつかない。彼の言いなりになるのは癪だったが、いまはそうするのが妥当だろう。意地を張って刃向かうのは、さすがに考えがなさすぎる。


 いざとなったら、このまま行方をくらませてもいい──


 どうせ失うものなどなにもないのだ。もしそうするなら、大陸でまだ足を運んでいない東へゆこう。自分を知る人間が誰もいない遠くがいい。行く末のわからぬ旅の途中、そんなことをノアは思いはじめていた。

 乾いた荒野を横切り、ノアはなんとか暗くなる前に、数軒の人家が寄り添い合う村までたどり着いた。

 ごく小さな寒村だった。そこでは自身が生まれた土地にしがみつく者たちが細々と暮らしていた。当然、宿といった気の利いたものなどない。だが空き家があったので、ノアは村の長にカネを支払ってそこで夜を明かした。

 翌日の朝、すぐに村を出る準備にかかった。おそらくここがイシュラーバードまでの最後の中継地点となるだろう。支度は入念にした。村人に頼んで芋や乾物といった糧食を分けてもらい、寒さの厳しいハイランドへ向けての装備を調えた。

 異郷で過ごすには現地の様式に倣うのがいちばんだ。ノアは羊毛を編んだ厚手の外套をはおり、頭には帕布を巻いた。村人はカネを見せるとなんでも差し出した。オーリアを発つ際にたっぷりと支度金を与えられていたので、ノアはそれを景気よく使った。

 村を離れて北へ。しばらくすると風景が変化しはじめる。枯れ草だらけの荒れ地が、より殺伐とした礫砂漠となった。ノアはそこをひたすらハイランドへ向けて進んだ。一日に踏破できるのは、馬を使っても四、五〇キロ足らず。このペースならばイシュラーバードへの到着は三日ほどかかるだろう。

 道程を消化するにつれ、徐々に大地が傾斜しはじめ、そのうち山道となった。いよいよハイランドへ入ったのだ。気づけば周囲には荒削りな岩しかなくなっている。真っ青な空と、薄茶色の岩石だけの世界。ノアは丸二日、延々と登った。木や草の分布はほとんどなかった。知らないあいだに森林限界を越えていたのだろう。空気も薄くなってきている。

 そして村を出て三日目に、糧食と水が尽きかけた。わずかな飼い葉しか持ってこなかったため、馬もへとへとだ。ノアが野垂れ死にせずにすんだのは、運よくイシュラーバードからきた商隊と出くわしたからだった。荷馬車を連ねてオーリアへの帰路をゆく商人に、イシュラーバードはもうじきだと教えられ望みが繋がった。彼らに余分の食料と水を譲ってもらい、ノアはふたたび前進した。

 目的地まであと少しというところで、垂直に切り立った崖にぶつかり進路を探さねばならなくなった。見あげるほどの高さがある崖の中腹からは、雪融けの水が噴き出し、滝のようになっていた。地面に落下した水が、足首ほどの深さの小川となって流れている。

 ノアと馬は水辺で小休止することにした。そのときだった。突然、大きな声があたりに響いた。


「ハイホー!」


 崖に反響し、こだました声は何度もくりかえし聞こえた。

 ノアは周囲を見回した。するとやや離れた崖の切れ目から、黒い馬が跳び出てきた。全部で四頭。近くまできたとき、それらが馬ではないとわかった。頭部の両側にねじくれた角を生やした、大柄な山羊だ。そして四人のドワーフが背に跨がっていた。


「よう、イシュラーバードへゆくのか?」


 ノアのところまできて、四人のうちのリーダーらしきドワーフがそう言った。


「そうだ」


 とノア。

 ドワーフたちがノアの周りをぐるりと取り囲んだ。


「いい馬だな」


 リーダーのドワーフが値踏みする目でノアの馬を見て言う。

 いやな雰囲気だった。ドワーフたちは山賊の類いではないようだったが、ノアと親睦を深めるために声をかけたのでもなさそうだ。

 警戒するノアはオーリアから乗ってきた馬の手綱を取ると、自分のほうへ引き寄せた。それを見てドワーフのリーダーが鼻でせせら笑う。


「そう恐い顔をするなよ。なあ、あんた、おれと賭けをしないか」

「賭け? どんな?」

「簡単だ。ここからドラゴンファイヤー十字路まで、馬で競争するのさ。おれが勝ったら、その馬をもらう」

「こっちが勝ったら?」

「いい質問だ。もしそうなった場合、あんたは何事もなくおれたちと別れて、イシュラーバードへ向かうことができる」

「ずいぶんと不公平じゃないか」


 ノアが不満を込めて言うと、彼の後ろにいたドワーフが山羊の上から地面に唾を吐いた。


「ここはドワーフの土地だ。ニンゲンがでかいツラすんじゃねえ」


 ノアは外套の下でこっそりナイフを鞘から引き抜く。しかし、それで四人のドワーフへ立ち向かうには、あまりに心許なかった。

 目の前にいるドワーフたち。年齢はいくつくらいだろうか。ノアには判別できなかった。

 エルフほどではないが、ドワーフ族は人間よりはるかに長命な亜人種だ。成人でも人間の子供ほどしか背丈が伸びない。しかしその代わりにおなじくらいの横幅を持ち、体躯が非常にがっしりしている。性格はおしなべて短気で、気質が荒いといわれている。ゆえに怒らせると厄介だ。ドワーフは特に戦士としての資質に恵まれ、ひとたび戦闘となれば勇猛に戦う。いまノアを取り囲んでいるドワーフたちは、いずれも腰のベルトのところに戦斧や戦槌をぶらさげていた。彼らと事を構えるのはどう考えても悪手だ。

 ノアは小さなため息を吐いて、ドワーフのリーダーを見た。


「勘弁してくれ。馬がないと帰れなくなる」

「いいや、だめだ」

「おれはここへ初めてきたんだ。ドラゴンファイヤー十字路なんて知らない」

「この先にイシュラーバードの街へ繋がる間道がある。それを道なりに進めばいいだけだ。でかい辻だからすぐにわかる」


 食いさがってもお目こぼしはないようだ。ノアはあきらめて舌打ちした。

 イシュラーバードへはもう遠くないし、おとなしく馬を渡してもよかった。だが、ノアはこのドワーフたちの横暴さがどうにも鼻についた。


「よし。やろう」


 反骨心が旺盛すぎるのはノアの悪癖だった。

 相手には地の利がある。しかし勝算がないともいえなかった。身体の小さなドワーフはふつうの馬には乗れない。事実、いま彼らが乗っているのは乗騎用に品種改良された山羊だ。ノアの馬と比べて小柄で、歩幅もちがう。そこを活かせば勝負はどうなるかわからない。

 五人は小川のそばを離れ、崖の裂け目から間道へ移動した。ドワーフのリーダーが言ったとおり、岩の割れ目を抜けるとその先に道があった。ちょっとした渓谷。道は細く下っており、岩が多い悪路だ。


「ここが出発点だ」


 ドワーフのリーダーに促され、ノアは彼の隣に馬を並べた。


「距離はどのくらいなんだ」

「さあな。測ったことなんてない。だが、さっき言ったとおり、大きな辻があるからそこへ先に着いたほうが勝ちだぞ」

「わかったよ。とっとと終わらせよう」


 スタートの合図を送るドワーフが戦斧を掲げた。焦らすようにもったいつけたあと、それが空中へ放り投げられる。そしてくるくると回転した斧が地面に突き刺さった。と同時に、ノアの馬とドワーフの山羊は、両者ともがなにかに弾かれたように走り出した。

 最初は短い直線だ。ノアの馬が先行する。はじまってすぐの時点で、もう少し差がついていた。その先は急な下り斜面を避けるため、道が左へ折れている。ノアは鐙にかけた足を踏ん張らせて、馬が曲がるのに備えた。そうして無事に曲がりきったあと、後ろを振り返る。

 ノアはあわてて手綱を引いた。背後にいるはずのドワーフと山羊の姿が、どこにもなかったからだ。

 しばらく自分の肩越しに視線をさまよわせていると、道を外れて斜面を降りているドワーフと山羊を発見した。なるほど。最初からそのつもりだったのか。

 ノアは道脇へ馬を寄せて斜面を見た。縁から見おろすと、ほぼ崖に近い急勾配だった。だが山岳で暮らす山羊は高所を怖がらない。ドワーフの山羊は、軽業に近い身のこなしですいすい斜面をくだっている。

 このままふつうに間道をゆくなら勝ち目はない。迷っていれば遅れるばかりだ。ノアは馬の腹を蹴った。が、二の足を踏んで馬は斜面を降りようとしない。仕方なく、尻に浅くナイフを突き立てた。馬は悲痛にいななき、やっと地面のない宙へ足を踏み出す。

 ふわりとした浮遊感。それから、どすんという衝撃がきた。四肢をいっぱいに広げた馬は、どうにか斜面での転倒を免れる。そこからは駈け降りるというより、ほとんど滑落だった。ノアはいつ馬の脚が折れて斜面に放り出されるかと、ひやひやしつつ必死で体勢を維持した。無事に斜面の下まで到達できたのは奇跡だったろう。

 前方を見ると、もうドワーフの山羊はかなり先を走っていた。ノアは馬の腹を拍車で突き、急いでそれを追わせた。

 間道の先、遠くに山脈の切れ目がある。そこには大きな門のようなものが見えた。あそこがイシュラーバードだ。その手前、緩くくねった間道の途中に、たしかに大きな辻がある。ゴールは近い。

 ノアの馬がドワーフの山羊に追いついたのは持久力の差が出たからだ。瞬発力はともかく、身体の大きな馬のほうが長く全力で走れる。

 ノアは身を低くし、疾走する馬にしがみついていた。ドワーフの山羊のすぐそこまで追いついたとき、ノアに気づいた相手が腰のベルトへ手をのばした。彼は小ぶりな戦斧をかまえ、迫ってくるノアを待ち受ける。

 二頭がほぼ横並びとなる。ドワーフが戦斧を振りかぶった。手綱から片手を離したノアは、相手の顔をめがけてナイフを投じた。ぎょっとなったドワーフは、かろうじて斧刃でナイフを弾いた。彼は体勢を崩し、山羊の足取りがわずかに鈍る。その隙を衝いて、ノアの馬が前に出た。


「ずるいぞ、ニンゲン!」


 背後でドワーフが喚いている。どの口が言うのやら、だ。

 ノアに前へ出られてしまった相手は途中であきらめたようだ。そのままノアはドラゴンファイヤー十字路を通りすぎて、イシュラーバードへ向かった。

 ドワーフたちが追ってくる様子はなかった。ノアは泡を吹いている馬を歩ませると、首筋を撫でて労ってやった。そうして、あらためて道の先を見やる。

 ぎざぎざした峻嶺が連なるハイランドの山脈には、一カ所だけ峰が急に落ち込み、細い隙間がある。セイラム回廊。別名、帝国の墓場。

 セイラム回廊は北方のマグナスレーベン帝国がどうしても手に入れたい要衝だった。なぜなら、そこが北方と南方を結ぶ唯一の経路なのだ。昔から何年かごと、帝国は定期的にセイラム回廊へ大規模な派兵を行っている。しかしイシュラーバードのドワーフたちが激しく抵抗するため、陥落できずにいた。帝国の墓場という名の由来だ。そのおかげで図らずも、オーリアにとってはドワーフと山脈が帝国の侵略を防ぐ堰となっているのである。

 イシュラーバードの街はセイラム回廊の南側にある。ノアがその街の門までたどり着くと、高さが二〇メートルはあろうかという巨大な石門は閉ざされていた。

 ノアが街へ入ることができずにまごついていると、ハルバートを持ったドワーフの門衛が現れ、彼を門の近くにあった建物へと連れていった。イシュラーバードの街へ入る者は、そこで審査を受ける必要があるという。

 ノアはまず強制的に馬を取りあげられ、代わりに割り符を与えられた。あとでそれを馬の預かり所へ持ってゆけば、馬と交換してくれるらしい。どうやらここでは任意で街へ入るどころか、去ることも許されないようだ。

 審査が行われる建物内は、ノアとおなじくイシュラーバードを訪れた者たちでやや混んでいた。大きな部屋にいくつかのテーブルと椅子が置かれ、数人の審査官が口頭で申告手続を受けつけている。


「おい、おまえ!」


 勝手がわからず戸口に突っ立っているノアを、やたらでかい声が怒鳴りつけた。


「こっちだ。はやくこい」


 そう言って手招きするドワーフの審査官は、横にピンと跳ねた鼻髭を生やしていた。ノアは彼のいるテーブルまで歩くと、対面する椅子に腰掛けて帆布の背負い袋を床におろした。


「名前を言え」

「ノア・デイモン」

「どこからきた?」

「オーリア」

「なにをしにきた?」

「石の買い付けだ。おれは宝石商で──」

「ウソをつけ」

「ウソじゃない」


 心外だという顔をしたノアを、ドワーフの審査官がぎろりと睨んだ。


「おまえのような手合いにはうんざりだ。どうせローランドで食い詰めた犯罪者だろう。そういったニンゲンどもがハイランドへやってくるのを、おれは何十年も見てきたからな」


 言いつつ、審査官は床に置いてあったノアの荷物を勝手に持ちあげてテーブルへ載せた。そうしてなかに手を突っ込んで、ぞんざいに検めはじめる。


「宝石商ならどこかの組合に加入しているはずだ。組合の資格証明書を見せろ」

「組合には入ってない。商売はひとりでやってる」

「身分を示すものがないのか? ほほう、これはますますあやしい」


 そのとき、ノアの後ろを役人らしきドワーフと、彼に連れられたひとりの人間が通った。人間のほうは金属製の手錠をはめられ、顔にはひどく殴られて青い痣がいくつもできていた。


「なんだそいつは?」


 審査官がふたりを呼び止め、部下らしいドワーフに訊ねた。


「街から退出命令を受けた者です。容疑は採掘権料の未払いと、鉱物の不正持出となっています」


 とドワーフの役人。

 それを聞いた審査官が椅子から腰をあげた。部下のところまで歩き、彼が携えている雑嚢の口を広げて、なかを覗き込む。おそらく連行している不正を働いた者の所持品だろう。しばらく雑嚢をかき回したあと、審査官はノアのいるテーブルまで戻ってきた。

 ふたたび椅子に座ったドワーフの審査官が、両手に持っていたものをテーブルにぶちまけた。からからと硬い音が鳴り、卓上に転がったのはたくさんの石だった。


「おまえは宝石商だと言ったな。これらは、われらドワーフがクーデル神から賜った財産で、どれも磨けば価値のつく原石だ。おまえがいちばん高価だと思うものを選んでみろ」


 審査官に告げられたノアは、黙ったままテーブルに目を落とした。それから口元に手をやり、彼は考え込んだ。

 目の前にあるさまざまな石を、ひとつずつ慎重に吟味するノア。

 暫時が流れる。そしてひとしきり悩んだあと、ノアは泥水のように茶色く濁った石を指で示した。


「これだな。オクトライトだ。八方向に劈開するめずらしい石だ。この大きさならまずまずといえる。見たところ傷も少ない。濁ってはいるが、それでもオクトライトで透明度のある宝石質なものは希少だ。手に入れるため、カネを積む好事家はいるだろう。こいつを保管するなら、陽の光にあてず、傷を避けるためほかの石と分ける必要がある。さっきの男に言っておくんだな」


 ドワーフの審査官が、急に表情をいかめしいものに変えた。そうして彼は、


「ふん、少しばかりの目利きはできるようだな……よし、いっていい」


 椅子から立ちあがり、自分の背負い袋を手にしたノアは、内心でほっと胸を撫でおろした。

 いまのはさすがに肝を冷やした。鉱石の知識はイシュラーバードへ潜り込むため、オーリアを発つ直前に身につけた付け焼き刃だったのだ。が、なんとかぼろを出さずにすんだようだ。

 ノアがその場を去ろうとする間際、ドワーフの審査官が彼に声をかけた。


「あのニンゲンは、これから両手首を切り落としてローランドへ追い返す。おまえもせいぜい気をつけろ。イシュラーバードは下界とはちがう。それを忘れるな」

「ああ。そうするよ」


 とんでもない場所へこさせられた。ノアは、ここで自分になにが待ち受けているのか危ぶみつつ、建物の外へ出た。

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