第43話

「──衣。由衣」

「……ん」

「由衣」


 遠くから名前を呼ばれているような気がする。そんなわたしを呼ぶ声がだんだんと近くで聞こえ始め、ゆっくりと目を開けた。


 辺りは暗い。カーテンの外もまだ暗い。


「あれ、茅……ちゃん……?」


 そんな暗さの中、目の前にはベッドに横たわってこちらを見つめている茅ちゃんがいた。


「どうして……」


 「わたしの部屋に」、と続ける前にわたしは冴えない頭を使って少し過去を遡ってみた。


 先程、というより、寝てしまっていたので正確にはどれくらい前なのかは分からないが、おそらく少し前に楓ちゃんがわたしの部屋に来て、夜這いだのなんだのと言っていたはず。


 それがあら不思議。そのまま眠ってしまっていたわたしの横にいる人物は楓ちゃんではなく、いつの間にか茅ちゃんにすり変わっているのだ。


 あれから楓ちゃんは自分の部屋に戻ったのか、それとも全てわたしの夢だったのか。


「そこにいる」


 そんなわたしの思考を茅ちゃんが読み取ったのか、茅ちゃんが床の方を指さした。


 わたしの不思議が解決するように、確かに指の先では楓ちゃんが静かな寝息をたてながら眠っていた。頭はクッションの上、そして体には毛布がかけられている。


「あれ、ということは夢じゃない?」

「よく分かんないけど、夢じゃないと思う」


 茅ちゃんが答えた。


 いっそのこと夢であってくれた方が楽だったかもしれない、なんてことより気になることが他にある。


「なんで楓ちゃんは床に?」

「わたしが引きずり下ろした」

「ひ、引きずり……?」

「楓は一度寝たら起きないから」

「ええ……」


 引きずり下ろしても起きないって結構ヤバいような気がするけど、そんなことよりさらに気になることが目の前に。


「えと、それでなんで茅ちゃんはここに?」

「………………深い意味はない」


 それは深くない意味ならあるということだろうか、と言おうとしたが、そんな重箱の隅をつつくようなことはやっぱり言わないでおくことにする。


「由衣はさ、好きな人いる?」

「どうしたの、急に」

「気になったから」


 似たような話をいつかしたような、しなかったような。


 いつもなら狼狽えてしまうかもしれないこんな会話も夜という静かな空気感のおかげか、いつも通りの平静を保てている。


「恋愛としてって意味だよね」

「うん」

「いないよ」

「本当に?」

「本当。恥ずかしい話なんだけどね、今までちゃんと恋愛をしたことがないの」


 今、目覚めたばかりとは思えないほど、わたしの口からは淀みなく言葉が出てくる。


 普通だったら言わないようなことも、今なら言えてしまう。魔法をかけられたように、わたしの部屋はそんな雰囲気に包まれていた。


「でもモテたでしょ? 告白されたりとか」

「ぜーんぜん。一回もない」

「ウソだ」

「ホントだよ。悲しい話だけどね」


 時間がゆっくりと流れていく。


 わたしは茅ちゃんとこうしてゆっくり話すのが好きなのかもしれない。


「…………そのさ」

「うん?」

「わ、わたし、だったら、その、由衣と付き合いたいなって、思う……よ……? 由衣、その、か、可愛い……し、優しいから……」

「ふふっ、ありがと」


 わたしはどんなお世辞であろうと、素直に受け取っておくタイプ。それが両者にとって一番幸せなことだと思っている。


「……あ、でも、昔に一人だけ、そういう感じになった子がいたかも」

「え…… そうなの?」

「うん。そのときはまだ小学生だったから付き合うとかそういうのがあんまりよく分かってなかったんだけど」

「どういう子だったの……?」

「明るくて可愛い感じの子だったかな、たぶん。うろ覚えだけどね」

「……ということはもう会ってない?」

「うん。実はわたし、一回だけ小学校を転校したことがあってね。その子は前の小学校にいた子だから、転校しちゃってからは一回も会ってないかな」


 わたしは一度だけ、小学校低学年の頃に転校というものを経験したことがある。転校理由はお父さんの仕事の都合だ。


 転校をする前は名前も思い出せない例のその子ととても仲が良かった気がするが、転校先にいた美々ちゃんと小中高を通して仲良くなりすぎてしまったこともあってか、その子のことはほとんど覚えていない。


 ただ姿と雰囲気と微かな記憶をぼんやりと覚えているだけで。


「…………そっか」

「この話は内緒ね。ちょっと恥ずかしいからさ」

「他に知ってる人いる?」

「いないよ。茅ちゃんだけ」

「……わたし……だけ。ん、分かった。…………ね、今日はこのままここで寝ちゃってもいい? 部屋に戻るのめんどくさくなっちゃって」

「……うん、いいよ」

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