第34話 我慢
「おはようございます、由衣さん」
「あ、お、おはよ……」
「どうしたんですか?」
「あ、え、いや、なんでもありません……」
いつも通りの朝。いつも通りの朝ご飯。いつも通りの家族。
周りはいつも通りなのに、わたしはと言えば、まるでコミュ障かのように、文章の前に「あ」とか「え」をつけながらでしか楓ちゃんと会話ができていなかった。
まあコミュ障なのは間違ってないんだけどさ。
……と、まあそんなことは置いておいて、わたしは昨日の夜に起こったことがもしかして夢なのではないかと思い始める。
確かに夢ならまだ納得でき──
「夢ではないですよ」
「……!?」
楓ちゃんが隣の席に腰を掛ける。
甘い匂いがふわりと鼻に突き抜けた。
「もう一回しましょうか?」
「……!?!?」
楓ちゃんは人差し指を唇に当てて不敵な笑みを浮かべていた。
わたしはエサを求めるハングリーなお魚みたいに、ただ口をパクパクとさせることしかできず、朝から心臓のバクバクに体が支配されていた。
こんな楓ちゃんに対して何も言うことはできず、とりあえず目の前にあった食パンに口をつける。
ちょうどよくこんがりと焼き目のついた食パン。サクッという音が小さく響き、心を少し穏やかにしてくれ──
「……!?!?!?!?」
わたしは穏やかになるどころか、さらに混乱する。
楓ちゃんが椅子をこちらに寄せてきて、気が付けばわたしの腰に手を回されていたのだ。
何!? これ何!? 何がどうなってるの!? 由衣はひどく混乱してますよ!? 誰でもいいからこの状況を説明してええ!
しかし、お父さんはもう仕事でいないし、久美さんは洗い物をしている。茅ちゃんと柚ちゃんはまだ起きていないしで、誰もこの現状を説明してくれる人はいない。
わたしは痺れを切らして、口を開く。
「か、楓……ちゃん……?」
「ん?」
「……………………な、なんでもないですう」
ヤバい、なんか可愛い。いや、いっつも可愛いんだけど。なんて言ったらいいんだろう…… なんかこう…… あー、もう分からん!
わたしは残っていた食パンを一気に口に詰め込む。
「ふぁっほういってきまふ!(学校行ってきます!)」
できることは一つ。
逃げる!
そう。レベル差のあるモンスターと真正面から戦うことも大切なのかもしれないが、時には逃げることも大切なのだ。
わたしは玄関に置いていたカバンを手に取って、風を切るように走って学校に向かった。
☆
教室を開けると、中にはまだ誰一人としてクラスメイトはいなかった。
静かな教室に私の息切れした呼吸音だけが響き渡る。いつも活気のある教室が朝はこんなにシーンとしているのかと思うと不思議だ。
さすがに早く学校に来すぎてしまったなと思いながら、自分の席にカバンを置き、息を整えながら窓を開ける。
すると、少し生ぬるい風と共に叫び声に近い一生懸命な声が耳に入る。目の前のグラウンドではサッカー部の朝練が行わており、サッカーボールがあっちへこっとへと行ったり来たり。
朝から大変だなあ……なんてことを考えながら、そこまで一生懸命になれるものがあることに羨ましさも覚える。
ふいにガラガラと扉が開く音が聞こえ、後ろを振り返った。
そこに立っていた人物を見て、「げっ……」という声を出さないように口を押さえる。
「はあはあ、由衣さん、早すぎですよ」
「……ごめんね」
わたしを追いかけてきたのか、楓ちゃんが息を切らしている。
おそらく学校に行くのが早すぎだという意味だろう。最近は一緒に登校することが多いから、わたしだけ先に行ってしまったことは申し訳ないと思っている。
だけど、今はちょっと距離を置きたかったっていうか…… なんか楓ちゃんがいつもと違って見えるっていうか……
とにかく、楓ちゃんとどう会話していいかが分からなかったのだ。
深呼吸をしながら楓ちゃんがわたしの隣に立ち、同じように窓の外を眺める。
「……由衣さんは好きな人っていますか?」
「好きな…………人……」
あんまり今はこの話をしたくない。わたしの馬鹿げている予想が当たってしまいそうで怖いから。
「いないけど……」
「そうですか」
強い風が吹き抜けて、わたしは顔をしかめるようにして目を閉じる。
今日も天気は曇り空で気分はあまり明るくならない。梅雨の時期が嫌いなわけではないのに、今日だけはどうにか晴れていて欲しかったものだ。
目をゆっくりと開きながら、風に吹き飛ばされた前髪を整える。
「……私、由衣さんのこと、好きですよ」
「っ……!」
その言葉を聞いたわたしは目をかっと見開く。
今なんと言っただろうか。幻聴? いや、そんなことはない。
恐る恐る楓ちゃんの顔を見上げると、楓ちゃんの真っ直ぐな目がわたしの目を刺激した。
「……それはどういう意味……かな」
とにかく意味を聞いてみないことには分からない。楓ちゃんの発言した「それ」にはいろんな意味が含まれる言葉だから。
「こういう意味ですよ」
そう言った、楓ちゃんの顔が近づいてくる。
何をしようとしているのか、わたしは瞬時に察した。どんどんと近づいてくる楓ちゃんの顔を手のひらで押さえ、楓ちゃんの侵食をとめる。
「も、もう分かったから……」
斜め下を見つめ、楓ちゃんから目をそらす。
わたしは今、どんな顔をしているだろうか。
信じられない気持ちと驚きの気持ちと恥ずかしい気持ちと。他にも説明しきれないくらい、いろんな感情が混ざり合っている。
ただ、なんだか顔が熱くて、すごく見られたくないような顔をしている気がする。
「……そういう顔、反則ですよ」
「ちょっ、楓ちゃ……」
体の力が抜けて、その場にズリズリと座り込む。
背中にぴったりと触れている冷たい壁はわたしを助けてくれようとはしない。
楓ちゃんの手がわたしの肩をがっしりと掴み、勢いを止めず、もう一度わたしに近づいてくる。さっきみたいに止めたいのに、どうしてか楓ちゃんの唇に吸い込まれそうになって、抵抗することができない。
「──でさー、やばいよね? あはははっ」
「っ……!」
もうこのまま……という間近で教室の外から人の声が聞こえた。楓ちゃんの動きはぴくりと止まって、そのまま静止する。
その瞬間を見過ごさなかったわたしはグッと楓ちゃんを押し返す。
「ほ、ほら! もう人来ちゃうから! ねっ!」
間一髪というところで誰かが来てくれたことに、わたしはほっと胸をなでおろしながら、焦って立ち上がる。
そして、すぐにガラガラという音が教室に響く。
「あ、由衣ちゃんと楓ちゃん! おはよー!」
「う、うん! おはよー!」
教室に入ってきたクラスメイトに明るく挨拶をして自分の席に戻り、混乱した心を落ち着けるように、胸に手を当てる。
大丈夫。大丈夫。とにかく今はいつも通りに──
「由衣さん」
肩をトントンと叩かれ、わたしは恐る恐る振り返る。
「これからはもう我慢しませんからね」
「っ……!?」
耳元でそう囁かれたわたしは、どうあるべきなのかが分からない顔を隠すようにして、机に突っ伏した。
なんだかすごくヤバいような気がする。どうしてこんなことになったのだろうか。
そんなことを心の中で何度も繰り返していた。
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