第七話 人食い鬼ロベールと赤姫メリザンド

 第七話 人食い鬼ロベールと赤姫メリザンド


 ロベールの耳をつんざくのは、あちこちから響き渡る断末魔の悲鳴、気が狂ったような絶叫、苦しげな呻き声、ここにいる者は皆、嘘をついた者達だった。


 ロベールは嘘をついた者が裁かれる、地獄の穴の底に来ていた。


 ほら、天使達に鉄棒で頭を叩き割られている者も、焼けた鉄板の上を歩かせられている者も、熱した鍋で煮込まれている者も、誰もが皆、嘘をついて地獄に堕ちたのである。


 ほらほら、あっちこっちで嘘つき達が泣き叫ぶ事も許されず、焼けた鉄の針で口と舌を貫かれている。


 その上、強引に舌をぐいぐいと引っ張られ、抜き取られている始末だ。


 それもこれもみんな、この世で嘘をついた報いだった。


 だから、ここの亡者達はみんな、罰せられているのだ。


「あれは……」


 ロベールは、一際、騒がしいところがあるのに気づき、信じ難い光景を目にした。


「どうかしましたか?」


 銀髪のベルトランが、後ろから聞いてきた。


「ほら、あれ、こんな地獄の底で、ちょっと面白いものが見られるよ」


 ロベールは面白そうに指差した。


 ロベールに言われるままに指先を目で追った銀髪のベルトランはぎょっとした。


「そんな、まさか」


 銀髪のベルトランは開いた口が塞がらない。


 それも無理もない。


 目の前で繰り広げられている光景は、およそ地獄には似つかわしくないものだった。


 なぜって、本来、地獄で亡者を罰しているはずの天使達が、逆に激しい炎に身を焼かれ、苦痛に顔を歪め、蹲っているのである。


 この地獄でそんなとんでもない事をしているのは、まだ少女と言っていい、真紅のドレスを身に纏った美しい女だった。


 彼女が天使達を軽くあしらっている様子は、まるで風に遊ぶ可憐な真紅の花を見るようである。


「こいつはすごいな、あのお嬢さんと来たら、まるで日本の『赤姫』みたいだね」


 ロベールは勇ましいお姫様を目の当たりにして、物珍しそうに微笑んだ。


「赤姫?」


 銀髪のベルトランはロベールの口から聞き慣れない言葉を耳にして、怪訝そうな顔をした。


「日本の伝統芸能、『歌舞伎』の言葉だよ。新し物好きのサン・ジェルマン伯爵からの受け入りだけどね!」


 ロベールは一刻も早く彼女のそばに行こうとして、すでに走り出していた。


「歌舞伎には『赤姫』と呼ばれる、お姫様の役回りがある。なぜ、『赤姫』かと言えば、その衣装が〝赤〟を基調にしているからさ。緋の綸子りんず緋縮緬ひぢりめんに、金糸銀糸で花筏はないかだ、桜の花模様を縫い取った振袖を着るんだ。帯は織模様か縫模様の振り下げ帯、それに鬘も、それはそれはお姫様らしい、銀の花櫛のついた吹輪ふきわなんだよ。だけど、あすこにおわすお姫様ときたらお転婆が過ぎて、どこかに鬘を落としちゃったみたいだね!」


 ロベールは新し物好きのサン・ジェルマン伯爵からジャポニスムの洗礼を受けたようだが、フランスで日本趣味の人気に火がつくのはもうしばらく後の事だった。


「本物の赤姫は、どんな人だったんですか?」


 銀髪のベルトランは呼吸一つ乱す事なく、手作りお菓子が入ったピクニックバスケットを落とさないように気をつけながら、走ってついてきた。


「何も『赤姫』は一人じゃない。『本朝廿四孝ほんちょうにじゅうしこう』の〝八重垣姫〟、『祇園祭礼信仰記ぎおんさいれいしんこうき』の〝雪姫〟、『鎌倉三代記』の〝時姫〟、『積恋雪関扉つもるこいゆきのせきのと』の〝小町姫〟、『義経千本桜』の〝静御前〟、まだまだたくさんいるよ」


 ロベールは銀髪のベルトランに講義を続けた。


「分けても『三姫』と呼ばれているのが、〝八重垣姫〟、〝雪姫〟、〝時姫〟の三人なんだ。彼女達は『赤姫』の中でも、女形おやまにとっては、大役だ。何しろ、みんな恋に命を賭けた女だからね」


 ロベールは行く先の『赤姫』の事を再び見やり、感心したような顔になる。


「あれはさしずめ、狐火の奇跡を起こした〝八重垣姫〟かな?」


 ロベールは彼女のもとに近づくにつれて、だんだんと、顔が火照ってきた。


 息急き切って走ってきたからというだけでなく、いよいよ、興奮してきた。


 なぜって、彼女の白魚のような指先に、ぽっと明かりが灯った。


 いったい、いかなる力か、彼女の指先に、文字通り、火がついたのである。


 そのまま彼女の白い指が、地獄に羽ばたく天使達の後を追うように虚空をなぞる。


 次の瞬間、紅蓮の炎が群がる天使達を焼き尽くした!


「あんな風にして〝八重垣姫〟も愛する男に逢いに行く為、凍りついた諏訪湖を渡るんだ。〝八重垣姫〟は『ああ、翅が欲しい、羽が欲しい、飛んで行きたい』と強く思い、その願いを叶えたのは、諏訪明神の、狐の霊力!」


 あれこそ〝狐火〟である。


「なんじゃ、お前達は?」


 たった一人で天使達を一掃した赤姫が、ロベール達の存在に気が付いた。


「初めまして、僕は旅の絵描きで、ロベールと言います。こっちはお供のベルトラン。貴方は?」


 ロベールはその時、先程、天使達とやらかした派手な騒ぎで、赤姫が左手を怪我している事に気付いた。


 それも鮮血が滴る左手は、どう見ても人のそれではなかった——ある種の爬虫類、伝説の竜を思わせる、硬い鱗に覆われ、鉤爪が生えた手だ。


「どうですか? 恐ろしい天使達もいなくなった事だし、この辺で一休みして、お菓子でも食べませんか?」


 ロベールはおどけたように言って、赤姫を休憩に誘った。


 銀髪のベルトランも手にしていたピクニックバスケットから、可愛らしいバター生地のケーキを取り出した。


『ガトー・ド・ヴォワイヤージュ』——その名の通り、日持ちする旅行用の焼き菓子、である。


「もう一度聞くぞ、お前達は何者じゃ?」


 だが、赤姫は相変わらず、お硬い顔をしていた。


「実を言うと僕達は現世からやって来たんですよ。だから、少しばかりならお菓子の持ち合わせもある」


 ロベールは正直に話した。


「それで、なぜ、私に近づいてきた? 何が望みだ?」


 赤姫は単刀直入に聞いた。


「参ったな、お菓子を食べながらお話させてもらおうかと思ったんですが。別に隠すような事じゃない、素直に言わせてもらえば、一枚、貴方の絵を描きたい」


 ロベールは興味津々、赤姫を真っ直ぐ見つめて言った。


「なるほど、持っているお菓子といい、お前達がこの世の人間だというのは本当の事らしい」


 赤姫は思案するように言った。


「ではお前達がこの世の人間だというのなら、自由に地獄を行き来する事ができるのだな?」


「はい」


「すると、いずれまたこの地獄を離れ、現世に戻る訳だ」


「はい」


 ロベールは赤姫の言わんとしている事がにわかには判らなかったが、ここは素直に返事をする事にした。


「見ての通り、妾は地獄に堕ちた。いくら天使達を返り討ちにしても、どれだけ屠っても、決してここから離れる事はできぬ。それは叶わぬ願いなのじゃ。そこで、お前達に頼みがある……」


 赤姫は意を決したように口を開いた。


「なんでしょう?」


 果たして、彼女はこの世に未練でもあるのか、何か言伝を預けるつもりなのか。


「いや、妾はこの世に未練はない——強いて言えば、妾の未練はあの世にある」


「……あの世に未練が?」


 ロベールはますます赤姫の言っている事が判らなくなった。


「この世に罪を犯さぬ人間などいはしない。きっと妾の恋人も、妾と同じようにどこかの地獄にいるのじゃ。二人はもう、離れ離れ。だから、だからせめて、妾の絵を、恋人のもとに届けて欲しい。そう、お前が描いた妾の肖像画をな」


 ロベールは赤姫の身の上を聞き、俄然、興味が湧いてきた。


「貴方の恋人はどんな方なんですか? もう少し詳しく聞かせてもらわない事には、お相手を探しようがない」


 ロベールは言いながら、懐からスケッチブックを取り出し、彼女に視点を合わせて、構図を確かめる。


「妾の名は、メリザンド。半人半竜のメリザンド。妾はある夜、星空を飛び回り散歩している時、お祭りで賑わう村を見つけた。まるで夜の闇を抉るように赤々と燃え盛る篝火に誘われ、妾は戯れに人間に化けて遊びに行ったのじゃ。妾はそこで偶然、ペレアス様と知り合った。気付いた時には、恋に落ちていた。妾とペレアス様は祭りの後も逢瀬を重ねた……けれど、ある日、妾とペレアス様は質の悪い妖精に襲われての、この様よ」


 メリザンドは自嘲気味に笑ったが、ロベールは何か腑に落ちなかった。


 なぜって?


 先ほど天使達を簡単にやっつけた彼女でさえ敵わない妖精、果たしてそんな相手などいるのだろうか?


 そう言えば、彼女はそもそも、どんな罪を犯して、地獄に堕ちたのだ?


「それじゃそろそろ、始めましょうか。きっと貴方の今のお話と、私が描いたこの絵で、貴方の思いをペレアス様にお伝えする事ができるでしょう」


 ロベールはメリザンドが姿態を静止するのを待ってから、スケッチを始めた。


 そこかしこに亡者の白骨が散らばるこんな殺風景なところでも彼女は気高く美しい。


 ただそこに座っているだけで絵になる。


 歌舞伎における『赤姫』もまた、さして台詞もなくじっと座っている。


 今のメリザンドは赤姫そのもの。


 ロベールはその時、なぜ、天使を返り討ちにするだけの実力を持った彼女が、たかが妖精に襲われただけで、恋人を助ける事もできず、なす術もなく二人一緒に死んだのか、どんな罪を犯してここに堕ちたのか、気が付いた。


 おそらく、それを知っているのは、当のメリザンドと自分の他には、地獄の天使達ぐらいのものだろう。


 ロベールは笑った。


 ああ、なんといじらしく健気な事だろう。


 メリザンドが何食わぬ顔をして、傷ついた左手を背後に隠したのである。


 それが、メリザンドの犯した罪。


 ここは嘘をついたものが報いを受ける地獄。


 きっと、この〝八重垣姫〟様は、諏訪湖を越えて恋人に会いたいが故、自ら望んだ翅を手に入れても、羽を手に入れたとしても、羽ばたこうとはしない。


 そう。


〝赤姫〟メリザンドは、自分の正体を、怪我をして化けられなくなった、人ならざる手を隠したのである。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る