第二話 〝人形姫〟フィネットと『クエレブレの書』

 第二話 〝人形姫〟フィネットと『クエレブレの書』


 人食い鬼ロベールが住む、ブルターニュの深い森の外れには、苔むした岩が並ぶ小川を隔てて、まるで合わせ鏡のように、大聖堂を思わせる二つの校舎が左右に並ぶ寄宿舎学校リセ、『マゴニア学園』がある。


 左の岸には男子生徒が通う、『リヴ・ゴーシュ』、右の岸には女子生徒が通う、『リヴ・ドロワット』。


 それぞれ、小等部、中等部、高等部があり、成績優秀な生徒は男女共学の特別選抜クラス、通称、『嵐をテンペスタリイこす者達』に編入される事になる。


 ロベールの小さなお城、『お菓子の家』には、彼の正体など知る由もない『マゴニア学園』の生徒が、お菓子の甘い匂いに釣られて、時々、迷い込んでくる事がある。


 ロベールは小さなお城のお菓子屋さんとして、心から彼彼女達をもてなした。


『お菓子の家』の菓子職人、金髪のパニュルジュと銀髪のベルトランは、まだ子どもとは言え、人間は侮れないと感じていた。


 かつて自分達を作り出した発明家、ヴォーカンソンも人間なら、自分達を破壊しようとした、政府の役人もまた、人間なのだ。


 いくら子どもでも人間は人間——実際、『マゴニア学園』には、ある種、怪しげな雰囲気が漂っている。


 しんと静まり返った木造校舎の、いったい、どこに続いているのか判らないぐらい、長い長い廊下。

 どんなに晴れた日の陽射しも吸い込んでしまう、いつも薄暗い図書館。


 廊下の窓辺では生徒達がひそひそと噂話を交わしている。


 中には、まるで鋭利な刃物のように誰かの胸をぐさりと突き刺す、悪魔の囁きが交じっている事もある。


 寄宿舎学校は格式と伝統に彩られ普段は澄ました顔をしているが、ふいに全く別の顔を見せる事がある。


 その辺が金髪のパニュルジュと銀髪のベルトランにとっては油断がならないと感じるところなのだが、彼女達の主人、『お菓子の家』の城主、ロベールは少し違った。


 ロベールからすると、まるで仮面舞踏会の如き甘美な魅力に感じられるようである。


 なぜならロベールは今日まで誰とも関わって来なかった分、人間とは何なのか知りたいと思っていたから。


 誰かの人間らしいところに、少しでもいいから触れてみたいのだ。


 神秘的な深い森の中にある『お菓子の家』を訪れる者は、お菓子の甘い匂いに釣られて、皆、普段、被っている仮面を外す。


 自分が本当に食べたい物の前では、誰もが本心を見せる事になる。


 では本日のお客様は、どんな本当の姿を見せる事になるだろう?


「——こんにちは、何になさいますか?」


 ロベールは宝石のように色とりどりのお菓子が並ぶショーケースの脇に佇み、いつものように笑顔でお客を出迎えた。


 赤毛に青い瞳をした青年の前に静かに佇んでいるのは、『リヴ・ドロワット』高等部二年に所属する、フィネット、という名の女子生徒だった。


 ——まるで深い森の中に咲いた薔薇みたいに綺麗な子だな。きっと笑ってもらえたら、それこそ花が咲いたような笑顔に違いない。


 ロベールは彼女のあまりの美しさに感心した。


 確か彼女の成績は常に学年一位、特別選抜クラスに所属する生徒の一人で、誰もが振り返る美人である。


 あまりの美しさから、人々から、『人形姫』と呼ばれているぐらいだった。


 だが、彼女は物静かで感情の起伏に乏しく、常に無表情と言ってよかった。


 その為、憧れの気持ちや褒め言葉ではなく、皮肉混じりに、彼女の事を、〝人形姫〟と呼ぶ者もいる。


 ロベールは不思議そうな顔をした。


 彼女、本当に物言わぬ人形のように返事の一つもしなければ、身動ぎ一つしない。


 聞くところによると、いくら周囲の男性に持てはやされたとしても、誰にも興味を示さないらしい。


 休み時間や放課後には特別選抜クラスの専用校舎『空中庭園』の中庭で、いつも一人っきりで読書をしているという。


「……が欲しい」


 ロベールは彼女の呟くような声を聞き、怪訝そうな顔をした。


「もう一度、お願いできますか?」


 ロベールはにこやかに言った。


「……心が、欲しい」


 ロベールは突拍子もない言葉にきょとんとした。


 彼女はいつも一人っきりで読書をしているらしいが、もしかして読書のしすぎで頭が変になってしまったのだろうか?


「申し訳ないけど、うちは『お菓子の家』だからね」


 ロベールは苦笑いを浮かべた、その時。


「……君、その本」


 ロベールは彼女が手にしていた一冊の書籍に気づき、戸惑いの色を隠せなかった。


「その本、どこで手に入れたんですか?」


 ロベールは狼狽えていた。


 なぜか——彼女が持っている書籍の題名は、『クエレブレの書』という。


 ロベールは『お菓子の家』の常連客の一人から——人食い鬼の血がこの身に流れる自分と同じく影に潜んで生きる存在の——物好きな錬金術師から聞いた事がある。


 元々、『クエレブレ』という言葉は、フランスやスペインの洞窟などに住む、伝説にある竜の名である。


 言い伝えによれば、クエレブレの雄は獰猛な性格で人間を食べるが、美しいものが好きだという面もあり、ある日、クエレブレの洞窟に、強引な求婚者に追われた、金髪の乙女、シャナが逃げ込んできた。


 普通ならクエレブレの餌食となるはずだったが、クエレブレはシャナに一目惚れをした。


 クエレブレは『シャナさえ一緒にいてくれれば、他には何も望まない』と言い、彼女は願いを聞き入れ、クエレブレの力によって、永い時を生きる存在に生まれ変わったという。


 それ以後、クエレブレと彼女は洞窟で暮らし、月夜の晩には二人が住まう洞窟から、歌声が聞こえると言われている。


 常連客である錬金術師の話によれば、『クエレブレの書』はシャナと出会った竜とは別の竜を、何者かが魔術を施した本の中に封印したのだという。


 だが、クエレブレは本の中で生き続け、今となっては知る人ぞ知る、呪いの本として恐れられていると。


 曰く、『クエレブレの書』は若く美しい女性だけが持つ事を許され、お金、地位、名誉など、自分が望むものを手に入れる事ができるという。


 その代わり持ち主は、『クエレブレの書』に少しずつ自分の心を奪われ、体を奪われ、最後にはこの世から忽然と消えてしまう。


 そしてまた『クエレブレの書』は人知れず、どこかの美しい女性の本棚にいつの間にか収まっているという。


「まさかこんなところで、そんな本にお目にかかれるとは……そうか、君は『クエレブレの書』に自分の心を奪われたのか」


 ロベールは、興味津々といった風である。


「いったい、なぜ、どうしてそんな事を?」


 詰め寄るようにして質問した。


「…………」


 だが、彼女は呆然と立ち尽くしたままだった。


「もう、心の大半を『クエレブレの書』に食べられちゃったのか。〝人形姫〟は生まれつき、物静かな性格だったのか? それとも『クエレブレの書』に心を奪われて、結果として〝人形姫〟なんてあだ名がついたのかな?」


 ロベールは考え込むようにして言った。


「何にしろ、どうして『クエレブレの書』に自分の心を与えたの?」


 ロベールはもう一度、彼女に質問した。


「……私は、お父様の為に、家柄の為に、優等生じゃなければ、いけなかった。だから、私はずっと、頑張ってきたの。でもそれももう、限界。そんな時、学園の図書館の本棚に、『クエレブレの書』が収まっていたの……それから……私は、自分の心を、少しずつ、少しずつ……」


 それこそ操り人形のように、ぎこちなく話した。


「でも、私にはもう、何にもない……もう、私の心は空っぽ……全部、真っ暗闇の夜の底に落ちていくみたい」


「そうしてお菓子の甘い匂いに釣られて、うちにやって来たっていう訳か」


 ロベールは憐れむように言った。


 すると、最早、心を失っているはずの彼女から、ぽろぽろと、絶え間なく涙が零れ落ちた。


「うーん」


 ロベールは自分の両手を見つめて、手のひらを開いては閉じて考え込んだ。


 ——どうする?


 人食い鬼のこの手は今すぐにでも、彼女の肉を引き裂き、骨を砕く事ができる。


 ——どうすればいい?


 人間のこの手は、目の前にいる彼女に何ができる?


 ——まるで深い森の中に咲いた薔薇みたいに綺麗な子だ……だとしたら?


 ロベールは何を思ったのか、突然、店の奥に引っ込んだかと思うと、てのひら大の麻袋を持って来た。


「常連のお客さんの中に一人、もの好きな人がいてね、僕が散策に出かけた時、綺麗な花を見つける度にスケッチしているんですと言ったら、こいつは革命の記念に錬金術を使って品種改良したものなんだよって、この前、くれたんだけど——この麻袋の中に入っているのは、トリコロールの薔薇の種だよ」


 フランスの国旗、青・白・赤の三色旗——いわゆる、トリコロールは、フランス革命の時に革命軍が付けた、帽章の色に由来する。


「錬金術が施されているだけあって、ただの薔薇じゃない。君の中の僅かに残っている心を込めて育ててやれば、永遠に育ち続けて、青、白、赤——自由、平等、博愛の花が咲き乱れる。そしたらこれからはこいつをたらふく、『クエレブレの書』に与えてやるといい」


 ロベールは錬金術師が作ったという、トリコロールの薔薇の種が入った麻袋を、大真面目に手渡した。


「…………」


 これが普通の生徒なら胡散臭そうな顔をして受け取る事もなかったかも知れないが、彼女は〝人形姫〟、表情一つ変える事なく、疑問一つ口にする事なく、トリコロールの薔薇の種を受け取った。


「ああ、元々もらい物だし、お代は要らないよ。困った時はお互い様って言うだろう、君はもう自分の心だって持ち合わせがないんだ。さあ、そろそろ、店仕舞いだ。いつまでもここで泣かれちゃ堪らない、これを持って早いところ寄宿舎に帰るんだね」


 ロベールはそう言って、まるで今にも儚く消えてしまいそうな、独りぼっちの〝人形姫〟を見送った。


 もし、願いが叶うのなら、〝人形姫〟の微笑みを、一目、見てみたかったと、そう思った。


 ——特別選抜クラスの専用校舎、通称、『空中庭園』の中庭には、ほんの少し前まで草花など咲いていなかった。


 ただいつもそこには、〝人形姫〟、フィネットが長椅子に腰掛け、一人っきりで静かに読書をしていた。


 本当に人形のように無表情で、何もない殺風景なそこに、まるで真っ暗闇の夜の底に、独りぼっちでいるみたいにして。


 だが、今は違う。


 いつの頃からか〝人形姫〟は『空中庭園』の中庭いっぱいに咲き誇った、青、白、赤のトリコロールの薔薇の花に囲まれ、じょうろを使って大切そうに水をやっていた。


 今日では『マゴニア学園』の生徒達の間で『空中庭園』の中庭は、一年中、トリコロールの薔薇の花が咲き乱れる不思議な場所として知られ、彼女が花に水をやっている姿を見かけた生徒の中には、気のせいか、まるで誰かから親切にしてもらったかのように、嬉しそうに微笑んだ横顔を目にした者もいるという。


 そうしたところから〝人形姫〟フィネットは、もう一つ手に入れたものがある。


 偶然、彼女の微笑みを目にした生徒から新しいあだ名を頂戴したのである。


 今ではみんなから親しみを込めて、こう呼ばれている。


〝花の妖精(フェ・デ・フルール)〟、と。

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