不整和声

茶々瀬 橙

1:ウズメ

 ぷわー、ぷわー、と間抜けな音が響いていた。昼休みの喧騒に紛れ、校庭で上がる男子生徒の大声にかき消されそうになりながら、か細く繰り返し鳴っていた。

 中庭に面した窓からでは、校舎の間で反響してしまって、音の出所はわからない。でも音楽室だろうな、と思ったのは、それがトランペットの音だったからだ。いや、トランペットの音と認めたくはない。音の始まりアタック終わりリリースもふにゃふにゃで、掠れていて、音程ピッチも安定しない、そもそもろくに息の入っていないそれは、トランペットにあるまじき音色だ。B♭ベーツェーデーB♭ベーツェーデー。繰り返される間も、何度も息が抜けて音になり損ねている。

 「へたっぴだなあ」

 開け放った窓のサッシに寄り掛かって、思わず呟く。ちょうどそのときに、後ろで引き戸がガラリと開いた。呆れた声が、わたしの名を呼ぶ。

 「ウズメさん。いるのは構わないけど、せめて病人らしくしていたら?」

 入ってきたのは、養護教諭の先生だ。背すじをしゃんと伸ばして、白衣の前のボタンをきっちりしめて、眼鏡をかけて、いかにも生真面目そうな女の人。窓際に寄せたデスクに向かいながら、彼女は小さく欠伸を漏らしていた。片手を口に当てて目を瞑る。目つきは鋭いけれど、こういう無防備な姿は存外かわいらしい。

 先生はデスクの前で回転椅子に腰かけた。溜息と共に天板に突っ伏す。

 「センセ、どしたの。お疲れじゃん」

 彼女の隣の丸椅子に座りながら尋ねる。先生はのっそり身を起こして、今度は背もたれに身を預けた。両手をお腹の上で組んで天井を見上げる。首を傾けてわたしを見る。眼鏡の弦からさがるストラップがしゃらりと小さく音を立てた。

 「転校生がいるのよ」

 「また妙な時期に」

 「その転校生が、ちょっとね」

 「なるほど」

 「わたしはカウンセラーじゃないっていうのに」

 「へえ」

 それだけ言うと、窓の外へ視線を向け、デスクに両手で頬杖つくとまた溜息をついた。愚痴っぽくなってはいても、個人情報を口にしないのはさすがの職業精神だね。いや、話題の中心が転校生であることを語ってしまったから、これも守秘義務に抵触するのだろうか。いけないんだあ。

 先生が黙ってしまうと、また、窓の外からあのへたっぴなトランペットが聴こえてきた。B♭ベーツェーデー、……E♭エス! なるほど、音階をやりたかったのか。チューリップでも練習しているのかと思ったぜ。がんばれ、見知らぬ駆け出しトランぺッター。

 内心で拍手を送っている隣で、先生はこの音に全く関心を寄せず、それどころか気づいてすらいないって顔で、デスクの脇に掛けたリュックサックからお弁当を取り出していた。それなのに、天井のスピーカーが、やる気のないチャイムを歌い出す。先生の手がぴたっと止まる。そのあとで彼女が頭上を仰いだのは、スピーカーを睨みつけたのか、昼食を食べ損ねて嘆いたのか。どちらにしても、お昼休みはもう終わりだった。午後の授業が始まる。トランペットの音も途端に静かになった。

 本日何度目かの溜息とともに、先生はお弁当箱をリュックに戻す。ついでその視線がこちらを向く。彼女の言いたいことは、口に出されずともわかっていた。肩をすくめて応える。

 「ちゃんと勉強はしますよ。ここを出ていけー、なんて言わないでくださいよ」

 「言わないわよ。それ言ったら、あなた学校にも来なくなるでしょ」

 「えへへ」

 「はにかむところじゃないわ」

 先生は大げさに肩を落としてみせて、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべた。わたしも殊勝に頷く芝居で返す。机上にファイルとノートパソコンとを広げだした彼女の邪魔にならぬよう、静かに立ち上がった。保健室の中央のテーブルに放り出した鞄から教科書やらワークやらを取り出して、ソファに腰掛ける。ペンをとる。

 間もなく本鈴が鳴った。


 放課後、すぐに保健室の戸が叩かれた。先生が返事をするより早く、威勢よく戸が開く。そして元気のよい声が高らかに響いた。

 「ウズメ、ニュースだ!」

 「失礼します、くらい言いなさい」

 「失礼します、ニュースだ!」

 「静かに言いなさい」

 「先生、注文が多いですよ。猟犬を呼びましょうか」

 「わたしは山猫じゃないわ……」

 言うだけ言って、この闖入者、イヌシカはずかずかと保健室に踏み入ってきた。テーブルで教材に向かっていたわたしの正面にどかっと腰掛ける。先生はやれやれと首を振り、業務に戻ってしまった。気持ちはわからないでもない。

 イヌシカはと言えば、先生のあきれ顔などちっとも気づかず、テーブルに広がっていた教材を勝手に脇へと寄せている。どっちみちもう終えるつもりでいたから構いはしないけれど、教科書の目に映ることさえいやかね、念入りにノートの下へと潜りこませて。仕上げと砂山を固めるみたいにノートを叩き、ぱっとわたしを見た。

 「ニュ……」

 「それはわかったから。どしたの」

 「転校生が来た」

 どこかでも聞いた話だな。

 「しかもうちの部活に入った」

 そっちは初耳だ。しかしそれで得心いった。六月に入ろうかというこの時期に、未だに音階すらまともに吹けないトランペットがいるのはそうした事情があったのだ。イヌシカによれば、その転校生はイッコ下の一年生で、親の都合での転校であったらしい。こんな時期にかわいそうなことだ。前の学校では部活に所属していなかったが、交友関係を確保するためにも心機一転、入部することにしたとのこと。なるほど合理的だが、修練の必要なうえ団体競技の極致みたいな部活に入ったのは失策だったのではないかね。足を引っ張る個人には、否定的な感情が向かいがちだから。弱小校でありながら、テレビ番組に特集される強豪さながらの情熱やひたむきさを求められるのは、女性社会故の怖さだね。

 などと、顔も知らない転校生へいらぬ心配を向けている間にも、イヌシカはやや興奮した様子でその転校生の情報をあれこれと語っていた。どえらい美少年で、女子顔負けに儚げで、色素薄くて、幸薄くて、ちっちゃくてかわいくて……。なんだか似たような情報ばかりだな。写真のひとつもないのかと尋ねると、あまりに神々しくて撮れなかったという。どういうことよ。

 ひとしきり語ったのち、イヌシカは「だからさ」と腕を組む。視線がわたしを向く。

 「ウズメも戻ってこない? 興味あるだろ」

 なるほど、そう来たか。なんでもないように言って、もしやこれが本題だな。あいや、さっきまでの熱弁も偽りではあるまいが。わたしは知らず苦笑いを浮かべていて、それを自覚してから遅れて自身の気持ちにも気づく。或いは、いちばんの友人と互いに自負するイヌシカに声を掛けられたならば、わたしの気持ちも揺らぐのではないかという疑い……期待? もあったのだけれど、なかなかままならないものだあね。

 わたしが言葉を選んでいるうちに、イヌシカが「わはは」と大袈裟に笑った。

 「美少年につられないとは、見直したぞ」

 「誰目線よ」

 「イヌシカ目線さ。じゃ」

 入ってきたとき同様に、ぱっと立ち上がってイヌシカは片手を挙げる。颯爽と保健室を出ていく。言いたいことだけ言って、会話の綾とか、やりとりの機微とか、遠慮と気遣いとか、そういうのに全く無頓着なのは、いっそ清々しいくらいだ。そこに嫌味を含まないから、好感が持てるのだろうな。まねできないね。ホント、わたしには到底、まねできないことだよ。

 タンッ、と小気味の良い音と共に扉が閉まると、途端に保健室が静かになった。暗いトンネルから抜け出るときみたいに、静寂ののちにじわじわと、外の喧騒が湧き上がる。運動部のごちゃごちゃした大声と、さしてうまくもない楽器の音色。遠く響く、いかにもな青春の潮騒。

 息苦しさに、知らず呼吸が詰まっていたことに気づいた。深く息を吐きながらソファに凭れる。会話は聞こえていただろうに、先生は何も言わなかった。

 わたしが帰り支度を終えて立ち上がるころに、ようやく彼女は振り返る。

 「たしかに、転校生はとんでもない美少年よ」

 「先生まで言いますか」

 「一見の価値ありね。遠目に見るだけでも癒されるわ」

 「教師の発言とは思えない……」

 「やあね。教師だって人間よ。それにほんと、びっくりするから」

 「あんまり興味ないですねー」

 「そう? もったいない」

 冗談めかして言うものだから油断していた。気づくと先生は、優しい目でわたしを見ていた。そして肩を小さく竦めるものだから、わたしは咄嗟に目を逸らす。こういうのが、この先生の卑怯なところだ。卑怯だけど、信用できるところでもある。

 このままではいけないことくらい、わかっているのだ。学校に来るだけマシじゃないかとか、勉強はちゃんとやっているとか、わたしだって好きでこんなところにいるわけじゃないとか、いろいろな言いわけがぐるぐると渦を巻く。でも、そういうのを口にすると、より一層惨めになることが目に見えているから、わたしは黙り込むしかない。無意識に、舌で下唇の裏を舐めた。ざらつく歯型は、いつの間にずいぶん浅くなっていて、現実から逃げ続けているこの一か月という時間の長さを思わせる。それだけの間、楽器に触れていないのか。大して熱心にやっていたわけでもないのに、悲しくなった。

 「また明日ね、ウズメさん」

 「……はい」

 「待っているからね」

 「大丈夫ですよ。ちゃんと来ます。ここには」

 「うん」

 深く頷いた先生が立ち上がろうとするのを制して、挨拶を残し、早々に保健室を辞した。廊下を足早に抜けて、人気の失せた昇降口の戸をくぐったときに、不意に力強いトランペットの音が耳朶を打つ。昼休みに聞いたのとはまるで違う、芯の通った響き。ロングトーンで音階を上っているだけだったけれど、中庭の反響で倍音まで増幅されて、心地よい音色に思わず足が止まる。

 奏者の心根をよく映した、清々しい音だった。そしてそれに隠れて、昼に聞いたふにゃふにゃまで聞こえてくる。なるほど、イヌシカを味方につけたか。それならば、ほんとうにいらぬ心配だったわけだ。あの一種異質な空間で、イヌシカみたいな性質は希少価値だ。転校生くんよ、イヌシカ先輩によくよく教えてもらいなさい。

 腕を組み、師匠面でひとり頷いてから家路に就いた。日暮れ間近の風は未だ冷たく、わたしの身に強く吹きつけて、楽器の音なんかすぐに遠くかき消してしまった。

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