豹変

 眠くて、ダルくて、ボクは訳が分からなくなっていた。

 落ち着かなくて、ソワソワしている。

 なのに、動きたくない気分。


 頭の中には、ずっとミサキさんがいた。


 今まで、当たり前だと思ってきた事が一気に崩されたショックは、ボクの心を確実に蝕んでいた。しかも、心をチクチクと蝕む何かを自覚した上で、ボクはミサキさんの家に足を運んでいる。


 ――異常だ。


 ドン引きするなんてものじゃない。

 狂っている。

 分かっているはずなのに、ボクには逃れる術がなかった。


「本当に大丈夫?」


 誰もいない駅のホームで、ボクはベンチに座ってボーっとしていた。

 隣には牛河さんが座り、ボクの手を握っている。

 女っ気のない日々を送ってきたから、本当はドキドキするはずなのに、ボクの心は妙に落ち着いていた。


「ねえ。先生に言うのは、どう?」

「何が?」

「みんな、水野くんに酷いことばかりして……」


 桃色の唇がきゅっと噤み、


「――……」


 ぎりっ。


 手の甲に爪が立てられ、痛みで意識が明瞭になってくる。

 清らかで可憐な牛河さんの横顔が、段々と目つきが鋭く尖り、ぷっくらした唇からは犬歯が覗く。


 見たこともない形相だった。


「あ、あの」

「……っ」

「痛いから。離して」


 牛河さんが名残惜しそうに手を離す。と、思いきや、今度は手首を掴まれた。


「水野くん。おまじない、……してあげる」

「おまじない?」

「うん。痛みが消える、おまじない」


 何をするんだろう、と見守っていると、牛河さんはボクの手を自身の口元へ持っていく。吐息が手の甲に当たり、小さく口を開くと、牛河さんは手に唇を付けた。


「え、ちょ」


 柔らかい唇が手の甲にできた傷痕に被さり、徐々に強く吸われる。

 吸われるだけなら、もっと別の感情が湧いたかもしれない。

 でも、柔肉の中で硬い物が当たっていた。


 歯だ。


 始めは優しく皮膚をなぞっていた歯が、徐々に深く食い込んでくる。


「……ぢるっ」


 溢れた唾液を啜る牛河さんの唇からは、透明な液に混ざって、赤い血が滲んできた。


「い、痛いってば!」

「あ……」


 慌てて離した手を見ると、くっきり歯形が残っていた。

 犬歯が刺さった場所には、小さな穴が空いていて、血が薄っすらと滲んでいる。


 牛河さんは口元を指で拭い、「ごめん」と謝った。


「いきなり、何すんの」


 唾液を呑み、牛河さんが言った。


「痛い場所の周りをね。かじると、痛みがなくなるんだよ」

「……え?」

「痛みを痛みで消すの。そうすれば、辛い事なくなるから」


 牛河さんが手を伸ばしてきて、ボクの手首をまた掴んだ。

 僅かばかりの恐怖心が込み上げてきたボクは、手を引いて抵抗するけど、意外にも牛河さんは力が強かった。


「どうしてこんなこと」

「水野くんが、好きだから」


 ボクの胸元を見て、牛河さんは言った。

 告白、というほど甘い表情ではない。

 もっと別の感情が宿っていて、真顔に近い。

 胸元の一点だけを見つめて、牛河さんは手首に力を込めてくる。


「なんか、……このままだと、水野くん壊れそうで。本当は少しずつ仲良くなりたかったけど」


 目玉だけが動き、ボクの顔を覗き込んでくる。


「……もう、いいかな、って」


 ボクが今まで見てきた牛河さんは、そこにいなかった。

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