第16話 失われた時を求めて
「え……」
「ほんの少しでもいいから、向こうで会えない?」
「それは大丈夫だけど……」
「そう、じゃあ先に行って待ってるから急がず来なさい」
携帯電話の画面は、通話が終了したことを知らせている。
それを、すぐに消す気になれなかったのはなぜだろう。
ぼーっとしていたわけではないけれど、頭が働かなかった。
「トーマさん、固まってる」
「あ、え、うん」
「……どうしたの?」
「……祖母が倒れた、って」
この間思い返したばかりだったのだ。それにハルも、今年の僕の誕生日に、そっちに行こうって……虫の知らせというやつだろうか。
「この間話してくれた人?」
「うん……それで、一回故郷に来てくれって……」
いや、まあ、たしか80歳前後だったから、そういうこともあるだろう。
ただ、言葉が脳に沁み込まないというか……。
「…………一緒に行って、ハル」
「トーマさんが望むなら」
えっと、飛行機のチケットをとって、荷物をまとめて、あ、あとは何が必要で……。
「一回落ち着こ、トーマさん……きっと大丈夫」
「ハル……」
「とりあえず深呼吸して、俺も考えるから」
ハルが手を握ってくれている。
血を送り出すように、強弱をつけて握っている。
そのあたたかさに、僕はすこしだけ冷静さを取り戻した。
「えっと、冷蔵庫の整理もしなくちゃ」
「おっけ」
「キャリーケース、もうひとつあったと思うからそれ使って」
「俺は荷物少ないから、トーマさん荷造りしてなよ」
僕ひとりだったら、ナツメか誰かが来るまで狼狽えていただろう。
最後に軽く手を握り返し、物置へ向かった。
◆
「パスポート持っててよかったー」
「ごめん、あちこち連れ回しちゃって」
「気にしないでよ、母さんも快く送り出したんだし」
飛行機に乗る前までは蒼白だったトーマさんの顔色もすっかり戻り、飲んだり食べたりできるようにまでなっていた。
パスポートを取りに家に帰ったら母さんがいたのには驚いたけど、事情を話すとものすごくニヤニヤして送り出された。絶対何か誤解している。
なぜだか札を数枚握らされたと思ったら、お土産を買って来い、とのことらしい。
付き添ってくれたトーマさんと初めて対面し、何か納得したように頷いていたのだけが気にかかるけど。まあ、やっぱり母さんもトーマさんを気に入ったようで、いつものトゲトゲテキパキキビキビした感じがなくなっていた。
「車が着いてるはずだから」
「あ、はい!」
俺はというとトーマさんが幼少期を過ごした土地ってだけで血が滾った。
書面や画像では繰り返し確認してきたけど、実際来るのは初めてだ。
聖地。聖地だ。緊張していると思われたようでトーマさんは俺の背を擦ってくれた。
トーマさんはここの国の本を翻訳しているだけあって、現地の人とも流暢に話している。最高だ。このまま帰りがけにでも”楽園”を見せてあげようか……。
「あ、来た」
「どれ?」
「ターコイズ色の車」
ああ、どうやってトーマさんの身内に好い印象を植え付けられるだろうか。
やっぱり挨拶くらい学んでくるべきだったか。英語塾じゃない方が良かったか。
「久しぶり、ハルくん」
「ナツメさん!?そっか、みんなこっちにいらしてるんですね」
「え?」
「言ってなかったっけ?みんなこっちで暮らしてるんだよ」
僕だけ日本在住、とのほほんとした顔で宣うトーマさん。
もっと早く言ってくれたら心置きなく楽園に連れて行ったのに。
「あの時は商談のついでに」
「わ、わーびっくりー……」
やっぱり味方につけておくべきだった。
◆
「おばあちゃん!」
「トーマ~~~~!!」
「ぅわぷっ」
トーマさんが車椅子の老婦人に駆け寄ろうとしたところ、横からきた男に阻止された。涙を流しながらトーマさんを撫で繰り回している。
ああ、聞かなくてもわかる気がしてきたな、これ。
老婦人が知らない言語でいくらか怒鳴っていたが、トーマさんを抱きしめたことで表情が和らぐ。トーマさんがこっちを指さして何か言うと、老婦人は自分で車椅子を操作してこっちに来た。
「いらっしゃい、急な話でゴメンナサイね」
「あ、いえ、俺がついて来たくて来たので」
「ナツメから話は聞いてます、トーマのこと、グラッツェね」
トーマさんが俺とおばあさんの手を取り、握手させる。
「おばあちゃん、こちらハルくん」
「ハルクンね」
「大事ないみたいで、俺も安心しました」
「ええ、だからハルクンもトーマも、いっぱい遊んで行ってね」
トーマさんのおばあさんが倒れたのはどうやら血流が滞ることによる失神のようで、大したことないのだ、とご本人が笑っていた。運動しなくちゃ、とも。
ホッとしたが、トーマさんの家族なんだから長生きしてもらわないと。
どうやって長生きしてもらおうか考えていると、後ろからナツメさんにつつかれた。隣には先程の男、おそらくトーマさんの父親が立っている。
心なしか、表情が硬いような……。
「あ、お父さん、こちらハルくん……ハル、これ父親」
「あ、どうも、トーマさんに絵を教わってます、花美堂ハルです」
「………………」
「あれ、パパ?」
お義父さんはわなわなと震え、今にも何か怒鳴り散らしそうだった。
「なぜ手を繋いでいるのかね?」
「ちょっとパパ、何言ってんのよ!」
隣のナツメさんがそれはそれは愉快そうに笑い転げている。
俺は、ああ、ナツメさんは父親似なんだな、じゃあトーマさんは母親似なんだろうなぁ、などと現実逃避してしまう。
「なぜって、おばあちゃんと手を繋いでるのと同じ理由だけど」
そう、別にトーマさんの家にいる時のような理由じゃない。
トーマさんが俺とおばあさんを引き合わせている、というのが最もこの状況に合った言葉だろう。
「……あのなトーマ、お父さんはトーマたちが幸せなら相手が女の子だろうが男の子だろうが干渉しないけど、手の早い人間だけはお父さん信用ならないぞ」
「ちょっとナツメ、お父さんに何言ったんだよ!」
「あら、あたしはただお兄ちゃんに”いい人”ができたって言っただけよ」
ん?と、違和感を覚えた。
なんで今、トーマさんに限定しなかったんだろう。
お義父さんとトーマさんが言い合ってるのを聴いていると、またナツメさんにつつかれた。知らない女の人が、ぴったりと寄り添っている。
「ハルくん、前例がある分苦労しないでしょうね」
「あ!」
ふたりの左手の薬指に、揃いの指輪が光っている。
正直、めちゃめちゃ羨ましい。俺もトーマさんにあげたい。
「いいなー…」
「civil unionだけどね、こっちに来るなら歓迎するわ」
それじゃ、とふたり手を繋いで去っていく。俺はナツメさんが味方であることを確信し、楽園計画を強固なものにしようと決心した。
「トーマさ…」
「なに言ってんのよ!手の早いのはあなたでしょ!」
「俺達は婚約してたからいいの!でもトーマはだめ!」
「いつまでも子離れできないと嫌われるわよ!」
「やだ!!」
いつの間にかご両親で言い争っている。
困り顔のトーマさんが逃げるようにこっちに走って来た。
もう手とか繋いじゃおっかな。
◆
トーマさんに連れられてきたのは、家のあるらしい牧場から少しだけ離れた丘だった。黄色と白の花がたくさん咲いている。
トーマさんの風景画でよく見た花だ。原風景、というやつだろうか。
トーマさんは大きめのカバンから分厚い何かを取り出すと、膝の上で開いた。
ちょこちょこと手招きされ、俺は無駄のない動きでとなりに座り込む。
「アルバム、持ってきた」
「見たい!」
赤ちゃんのトーマさん、話に聞いていたペンキまみれのトーマさん、ごはんを食べながら寝ているトーマさん、この地の小学校でのトーマさん……。
「……トーマさん、あんまり変わらないね」
「……ちょっとは変わってるし」
さいごのページに来ると、もう一度頭から見直して。
「……今度は、ハルのアルバムも見てみたいな」
「え、俺?」
「あの頃のハルにも逢いたいし」
「はは、じゃあ帰ったらすぐにでも」
ぱたりとアルバムを閉じたトーマさんが、俯いたまま動かなくなる。
まさか、具合でも悪くなってしまったのだろうか。
確かに、休む間もなく飛行機を乗り継いでここまできたんだった。
元気になってきている、とはいえ気は遣うべきだったのに。
「トーマさん、少し休……」
「ハル」
「はい」
いつになく真剣な目で、あの目で、俺をまっすぐに見つめる。
視線を逸らすなんてことは、俺にできるわけがない。
「……もし、思い違いだったらって、怖くて言えなかったことがある」
「……えっと、はい」
なんだ。バレたらまずいことならたくさんある。
それこそ、すべてバレたら軽蔑され、嫌われてしまいそうなことも。
ただ、そういったことは物証を残していないはずで……。
「ハル」
「……はい」
お互いの手が、お互いの左胸に置かれる。
小動物並みに早い鼓動が、お互いの間で揺れ動いていた。
「……ハルは、僕のことが好きなの?」
「……えっ!?」
「いや、ちがったなら忘れてほしいんだけどなんか……」
「はい、好きです」
「えっ」
左手の先で、トーマさんの鼓動がさらに早くなる。
じわりじわりと、布の向こうが熱を帯びていく。
「……言わせたからには覚悟してもらうけど」
「えっ」
「ものすごく近くて重くてありえないほど面倒」
「ぇあ……」
「トーマさんが言いたいのはそれだけ?本当に?」
最早心配になるくらいの鼓動だ。強くて、速い。かわいい。
ああ、トーマさんの心臓、一生懸命に血液を送り出してるんだな。かわいい。
顔だけでなく、耳や首まで真っ赤になっている。かわいい。
「ぇ……っと、それだけじゃない……」
「うん」
「ハルは……8つも下だし、こどもだし……でも、あの……」
「トーマさん」
「え」
「俺、8つ下だけど、もう8歳のこどもじゃないよ」
トーマさんは慌てたように頷き、言葉を続けた。
「僕って、ネガティブで面倒で……時には死にたくなるし」
「うん」
「でも……あぁ、こんなことが言いたいんじゃなくて……えっと……」
心臓を落ち着けるように、左手で軽く叩く。
赤ん坊を寝かしつけるようなリズムで。
「……それって、言ったらなにかが変わってしまうこと?」
「……うん……たぶん、ものすごく」
「それが怖い?」
「……こわいのかな、僕……こんな気持ち、いままで持っていたことがないから」
丘に一陣の風が吹く。
向こうの風とは違い、湿度の低い爽やかなものだ。
俺は最大限譲歩して、ほしいものを手に入れたかった。
「俺は言いたいことが分かるよ?でも、トーマさんの言葉で聞きたい」
恥ずかしさの為か、涙が一粒、零れ落ちた。もったいない。
「………………ハルと、ずっと一緒にいたい」
「うん」
「……世界中の人たちで、ハルだけが特別なんだ」
「つまり?」
「…………ハルのことが、好き」
世界中の音が止まった気がした。
風は止み、ふたりの手の中の鼓動だけがきこえる。
「近くても、重くても……ずっと、隣にいて?」
「トーマさん……」
叫びたい気持ちだったが、トーマさんの心情を優先し、我慢する。
これが書面や文面だったなら大いに叫び、他者を見下しただろう。
俺の愛するトーマさんは、この俺を選んだんだぞ、と。
ここで無理にでもハッピーエンディングにしてやろうか、と。
あぁ、雰囲気は最高だけど、もっと早く準備しておくんだった。
しかたなしに、花を2輪摘み取り、ちいさな輪っかにする。
それを、俺の鼓動を確かめる左手の薬指に嵌めた。
「じゃあ、俺と一緒に生きてくれますか」
「もちろん……喜んで」
海のようなトーマさんの目から、雨のように涙がこぼれる。
俺の持つもう片方の花指輪を受け取り、俺の左手、薬指に。
「トーマさん……」
アブナイ。つい楽園計画を話してしまいそうになった。
正気(?)に戻ってよかった。計画には順番があるだろ、俺。
たとえ愛を確認できても、恐れられてはだめなんだ。
完全に手に入れてからでなければ安心はできない。
トーマさんはまだ俺のすべてを知らない。
だから、今ここで話してしまうのはだめだ。
少しずつ、小出しにしていかなければ。
ああでも、一度手に入れてしまったものが離れていく恐怖って、こんなに、なのか。
「俺が高校を卒業したら、一緒に暮らしませんか」
「……うん、ハルがよければ、だけど……」
「じゃあ、少しずつトーマさんのこと、聞いても良いですか」
しばらくきょとんとしていたトーマさんが、合点のいったように慌てる。
「じ、自分でもそう言ったこと忘れてたのに……!」
「言ったでしょ?俺、トーマさんの嫌がることはしないから」
「ハル……」
トーマさんは、頭を俺の胸に預け、ため息を吐いた。
俺はトーマさんをすっぽりと抱え込んで、幸せに浸る。
ああ、トーマさんって年上らしく振舞ってくれるしいつも俺だけのことをでろでろに甘やかしてくれているけど、俺より一回り以上小さいんだよな。
最初っから俺に抱きしめられるために生まれたみたいに。
こうしてお互いを知らない8年ずつが、愛ですべて埋まってしまえばいい。
俺達は再び吹き始めた風で顔の熱を冷ましてから、トーマさんの実家に向かった。
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