冬への扉

冬への扉

第0話 人間失格




「は」


つい、笑ってしまった。


力ない笑いだった。


わずかに空気が漏れただけの。



手が痺れていた。

指先が冷たく震え、暑くもないのに汗が滴る。

感じたことのない痛みが手全体を覆い、前腕にまで及んだ。



「はぁ、……はぁ……」


いつの間に呼吸が浅くなっていたんだろう。

吐き気を押さえるように、深呼吸を繰り返した。


「……」


ペンを放り投げようとして、手が固まっていたことに気付く。

仕方なくもう片方の手で抜き取り、叩きつけるように放った。


もう、痺れか震えか痛みかもわからない。


何度か手指を開閉すると、やっと手の感覚が戻ってくる。

血が巡ったのか、ほのかなぬくもりを取り戻した。


「…………ないか、死ぬしか」


考えつくあらゆることは試した。

そして、だめだった。


試行錯誤がひとつ減るたび、僕は死刑宣告を受けている気になる。


世界から死ぬように勧められている気がする。


そうした方がいいのだろうか。


そうした方がいいのだろうな。


誰も正しいことをしてきた僕に味方なんてしなかったんだから。


やっとの思いで声を振り絞り、助けを求めたところで無駄だった。


正しさなんて必要はなくて、ただ使い捨てであって。


「……元々、生きたくなんてないんだよな」


こんなに何もない人間から、それでもなけなしのものを盗まなきゃいけないって、なんなんだろう。


なんで僕だったんだろう。


そんなに僕が嫌いだったのだろうか。嫌いだったのだろうな。


思い当たる節ならいくらでもある。


僕は僕の世界しか眼中になく、そのおこぼれを受けようとする人間も嫌いだったし。



「つまり、どういうことです?」

「挫折した、ってこと……」


灰色の冬に、彩の風が吹いた気がした。


「…………どちらさま?」

「ハル」

「……はぁ、で?」

「それ」


ハルと名乗った少年は、僕が使っていた画材を指さした。


「……え?」

「絵、描くのかって」

「…………あー」


僕はまっさらなそれらを慌てて片す。


「描かない」

「でも、それ」

「頼むからちょっと黙って……」


こみ上げてきた吐き気を抑えようとするが、どうやらダメな方らしい。

深呼吸関係なく胃液が逆流した感覚に絶望する。


外なんて、出るんじゃなかった。


太陽の下を歩いて良いのは、僕みたいな人間じゃないんだ。


吐き気の原因である画材を、それでも庇うように払い除ける。


苦しみたいわけじゃない。

せめて水を一杯飲み込んでから戻したかったけど、無理そうだ。


「え、気分悪いんすか」



死ぬなら今日。


今日死ねたらいいのに。


死ぬにはちょうど良い日和。



僕はこの良き日に、なぜ人様の前で醜態をさらしているんだろうな。



「おーい、聞こえてます?」


でもこのまま死んだら、周りに迷惑がかかるだろうな。


魚眼レンズを通して見たように、景色がぐるぐると歪んで回った。


ハキハキとしたハルの声だけが、明かりの消えた視界に響く。



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