【単行本版試し読み】第3話(全7回)

「あら。増田君──」

「こんばんは」

 狭い店内に客は誰もいない。

「今日は一人?」

「いえ。後ろに竜澤がいます」

 振り返ると竜澤が口に人さし指をあてていた。

 私は店内に顔を戻した。

「うちの先輩で今日来るとか言ってる人いないですか」

 ママがにやにやしながら立ち上がり、薬缶のかかったガスコンロに火を入れた。

「また先輩に奢ってもらおうとしてるのね」

「いえ。ちょっと来月の試合についていろいろ相談があるんです」

 そう続けた私の顔をママは笑いながら見ている。しかし相談うんぬんは噓でもない。私も竜澤も悩んでいた。

「竜っちゃんと一緒に御茶だけでも飲んでいきなさい。今日は寒いでしょう。お金はいらないから」

「ありがとうございます。でも、みねちゃんに行ってみます」

 頭を下げ、急いで引戸を閉めた。そして竜澤に向き直った。

「先輩だけじゃなくて他の客もいない。一人もいない」

 竜澤が喉の奥で唸った。

「そうか。ママ大変だろうから金ができたらまた来よう。小さい子供がいるからな」

「そうだね。来たほうがいい」

 私たちはまた肩を並べて、北大通りを北へと戻っていく。雪はまばらになっていたが空気はむしろ冷えていた。雪が本格的になるのは十二月からで一気に雪の日が増える。十二月中旬にはさらに降雪量が増え、やがて車道と歩道の間には常に高さ二メートルから三メートルの雪の壁ができる。除雪車が横へ雪を吐き出すからだ。歩道の足下の圧雪アイスバーンは五〇センチから八〇センチ位の厚さになる。その圧雪を鋸で切って雪のブロックを造り、ドーム状に組み上げれば、カナダエスキモーのイグルーと呼ばれる住居が作れるだろう。この札幌はそれほど雪が多い。

「明日から俺はコート着るよ」

 震える声で私は言った。

 竜澤はおそらくMA−1を着続けるために内側に何枚も重ねていくだろう。洒落者の彼は「今年はこれをずっと着たい」と言ってつい先日買ったばかりだ。昨年末からロードショーにかかったトム・クルーズの『トップガン』以来、これを着る学生をぽつぽつキャンパス内で見かけるようになっていた。しかし真冬になればいくら重ね着してもこれでは無理だろう。

 右前方に再びホテル札幌会館が見えてきた。あの手前を右へ折れると、みねちゃんが入っているカネサビルがある。ビルといっても古い木造モルタル二階建てである。北大生からは「北大体育会の魔窟」などと呼ばれ、様々な運動部の得体の知れぬ上級生たちがたむろしている。

 梅ジャンで有名な〈鮨の正本〉の前を通ってカネサビルに近づいた。

 ビルの入口は北大武道館の一階入口に似た鉄枠ガラス製の重いドアだ。そのドアをぐいと引っ張った。武道館のドアと同じくここも開けるときに必ず風の音が鳴る。中に入ると共用廊下にまで様々な飲み屋の串物や煮物の匂いが漂っている。入口のすぐ左の店がみねちゃんである。《やきとり》と書かれた巨大な赤提灯をよけて店の前に立った。竜澤がまた一歩下がったので私が暖簾を分けた。引戸をひくと白煙のなかで「らっしゃい!」とみねちゃんの声があがった。

「おう増田か。和泉がいるぞ、和泉が」

 両手に串を持ったままカウンターの奥に視線をやった。

 紺色ジャージの坊主頭が座っていて、振り向いた。

「あんた、美味いもんにありつこう思うてわしがおるのを狙ってきたんじゃろ」

 広島弁のバリトンが響いた。和泉さんに会うのは久しぶりだ。後藤さんの前の主将である。

「そんなわけないじゃないですか。たまたまですよ、たまたま」

 私が笑いをこらえながら振り向くと、竜澤もにやつきながら店を覗きこんだ。

「あれ? 和泉さんだ。こんばんは」

 とぼけた口調で言った。

 和泉さんがげらげらと笑った。

「なんじゃ、竜澤もおるんかい。悪ガキ二人でつるんでから。入ってきんさい」

 二人でそそくさと入って引戸を閉めた。煙突式の石油ストーブがしっかりと効いて暖かく、炭火焼きの串ものの香りが店内に満ちている。

 竜澤が笑いながら和泉さんに近づいていく。

「まさか先輩がいるとはほんとに偶然です。お邪魔しちゃっていいですか。せっかく一人で飲んでいるところに」

「あいかわらずな奴らじゃのう」

 和泉さんが一升瓶を持って立ち上がった。

「他のお客さんも増えてきたけ、ちょっと座敷を借りようかい」

 座敷といっても畳三枚ぶんほどの小上がりである。三分の二が壁になっており、三分の一がカウンター側から見える構造だ。

 和泉さんがサンダルを脱いで上がっていく。私と竜澤はジャンパーを脱ぎながらそれに続き、座卓の和泉さんの向かいに座った。和泉さんがいつもの光る眼でじっと二人を見た。

 みねちゃんがやってきて私と竜澤におしぼりを投げた。私は熱くて火傷しそうなそのおしぼりを手のひらで転がしながら「生ビールを大ジョッキで二ついただけますか」と頭を下げた。

 みねちゃんが消えると、和泉さんが腕を組んだ。

「あいかわらずのバッドボーイズじゃ」

「そんなんじゃないですよ。意外に真面目ですよ、俺たち」

 竜澤の言葉は、半分噓で、半分は本当である。つい最近、私たち二人は共に生まれて初めての彼女ができた。しかし何度会っても手も握れずにいた。男には強気に出るが女の子にはとにかく弱かった。

 みねちゃんがジョッキを二つ持ってきた。

 和泉さんが「練習ごくろうさん」と焼酎のコップを私たちに向けた。二人はそのコップにジョッキをぶつけ、急いで生ビールを飲んでいく。練習で失われた水分の補充はまだ三リットル以上足りない。二人ともジョッキを空け、みねちゃんに頭を下げて返した。みねちゃんはすぐに生ビールを満たして戻ってきて座卓にそれをどんと置いた。そしてそのまま框に尻を半分乗せて座った。自分のジョッキも持っていて大きな喉仏を上下させながら三分の一ほど飲んだ。口についた泡を作務衣の袖で拭った。

「おまえらあの旗判定どう思うよ。さっきも和泉と話してたけど」

 九月の体重別のことだとすぐにわかった。和泉さんは前年に続き連覇を狙っていた正力杯体重別個人戦の北海道予選六〇キロ級決勝で、道都短大の選手に旗判定で敗れた。

「どうみたって和泉の勝ちだろうよ。あの審判、何考えてんだって」

 みねちゃんは紅潮しながら言った。

「俺、あの瞬間、『馬鹿野郎! 八百長やってんじゃねえ!』って怒鳴りつけて帰っちまったんだから」

 ジョッキの残りを一気に空にして「どう考えてもあの判定はおかしい」と続けた。たしかに試合は終始和泉さんが押していた。得意の捨て身小内で何度かこかし、明らかに一度は効果のポイントがあった。しかし主審はそれを取らなかった。最後に副審の旗が割れたとき「あれ?」と思ったが、まさか主審が相手選手に上げるとは思わなかった。会場はざわついた。

「もう言わんとってください、みねさん。一本勝ちすりゃあ、あんなことにはならんのですけ」

 和泉さんがコップを口に運びながら言った。

 しかし、みねちゃんの怒りは収まらない。

「だけどおまえ、あれだけ練習したんだぞ。あれだけやってあんな八百長みたいなことやられて、やってられるかっていうことだ」

 みねちゃんは今度は一升瓶に手を伸ばし、それを鷲づかみにしてビールジョッキに焼酎をなみなみと注いだ。そしてストレートであおりながら語り続けた。

 みねちゃんが言うには、和泉さんは主将としてチームを率いた七月の七帝戦での幹部引退後、体重別の連覇に向け、朝六時からみねちゃんに連れられて道で高校ナンバー1の北海高校レスリング部の朝練に単身参加していたという。

「ほんとですか……」

 私は竜澤と顔を見合わせた。和泉さんはそんなことを一言もいわなかったのだ。

 みねちゃんは続けた。

 朝は北海高校でレスリング部員たちと猛烈なスパーリングをやり、サーキットトレーニングや裸でのタックル練習を繰り返した。午後になると今度は柔道衣を抱えて東海大四高へ出稽古に行き、高校柔道界全国トップクラスの重量級陣と乱取りを繰り返したという。北大道場に顔を出さないと思っていたら、陰でとんでもない努力を重ねていたのだ。

「みねさん、それもこれも含め勝負の世界ですけ、もう言わんとってください」

 和泉さんが手酌でコップに焼酎を満たした。みねちゃんは渋い顔で肯き、カウンターのほうへと戻っていった。

 私は和泉さんに向き直り、痛めている左膝を横へ半分開いて正座した。

「先輩。俺たち、先輩がほとんど道場に来てくれないから『和泉さんはもう柔道部のことなんてどうでもよくなったんだ』って話してたんです」

 和泉さんはコップを持ち上げて唇の前で止め、何かを考えている。やがて一口も飲まずにそのコップを置いた。

「わしの個人戦なんてどうでもええ。話の順番が違うじゃろ。わかっておると思うが」

 その言葉に私と竜澤は背筋を伸ばして座り直した。

「どうじゃ。東北戦に向けての仕上がり具合は」

 私が頭を下げると、和泉さんの眼が竜澤へと移った。竜澤も黙って頭を垂れた。

 私たちは何もかも中途半端だ。北大柔道部全体が中途半端な状況だ。和泉さんたち四年目が抜けた穴はあまりに大きかった。

「あんたら、自分たち二人がどこに立っておるかわかっておるんか」

「だいたいは……」

 竜澤が頭を垂れたまま言うと和泉さんは息をついた。

 そして私に視線を戻した。

「あんたは」

「はい。だいたいは」

「あんたもだいたいかい。だいたいって何じゃ」

 和泉さんが顔をしかめた。

「後藤とテツと杉田の三人はこのあいだ呼んでいろいろ言うておいた。引退してしばらくは幹部としての意識づくりの邪魔になってはいかん思うて少し距離を置いておったが、三人ともわかってきておるようじゃ。問題はあんたら二人じゃ。もっと自覚を持ちんさい」

 和泉さんはコップを手にし、焼酎を何口か含んだ。そしてコップを握った手でカウンターのほうをさした。

「まあええ。今日は好きなもんを食いんさい」

 私と竜澤は恐縮しながらみねちゃんを呼んだ。そして串や魚、丼飯を頼んだ。

 和泉さんが「みねさん。それを一人前ずつじゃのうて三人前ずつください。こいつら体を大きうせにゃいかんですけ」と言った。みねちゃんはわかったよという顔で肯いて、厨房のほうへ戻っていった。

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