2023年6月4日の日記 甥っ子よ、まだ走るのですか

 甥っ子二歳が走っている。全速力で廊下を駆け抜け、角を直角に曲がり、甲高く笑っている。甥っ子の走る速度は日々上がっている。大人顔負けのスピードだ。どうしてそんなに走るのかと聞いても、甥っ子は「ん? ん?」と答えるだけだろう。


 甥っ子は活気に満ちている。将来何になるかも未知だ。だから立ち止まることもなく希望だらけの未来に向かって一秒一秒の過去を置き去りにしていく。


 しかしいい加減止まるべきではないだろうか。我が家が田舎特有のむやみに大きい家だとはいえ、廊下の長さには限界がある。家中くまなく走ってもアスリートどころかただのジョギング好きにすら物足りなく感じられるだろう。そこを繰り返し走って飽きはしないのだろうか。


 甥っ子が加速し始めた。これ以上加速しようがあるのかと驚いたが、更なるスピードを得た。甥っ子は見えないほどの速度で猛烈なエネルギー破を放つ。これは相当なエネルギーだ。甥っ子は、甥っ子の足の裏は大丈夫だろうか。この間畳の目で爪を負傷したばかりなのに。そう思ってハラハラしていると、あるとき甥っ子は消えた。甥っ子の走る速度は光速を超えてしまい、ついにタイムリープしたのだ。文字通り過去を置き去りにしたということだろう。


「○○ちゃん! ○○ちゃーん!」


 私はパニックを起こして叫ぶ。しかし甥っ子は次の瞬間にはまたいた。謎の素材でできた子供服を着ている。何やら通気性のよさそうなカラフルな品で、甥っ子の体にあつらえたかのようにぴったりだ。


「おばちゃん、どうしたの?」


 甥っ子は未来でも流行っているらしい子供用のくまさんサングラスをくいっと上げ、私に笑いかけた。


「○○ちゃん、そのサングラスはもしかして……」

「なんかねえ、お姉さんがくれたんだけど、えーあーるサングラスっていうんだって」

「ARサングラスかあ」


 甥っ子はどうやら近未来に行って帰って来たらしい。


「これを使うとね、悪い人といい人が数字になってわかるの。子供用の安全サングラスなんだって」


 甥っ子の言葉に驚き、私は思わずサングラスに手を伸ばす。


「おばちゃんにそのサングラス貸して!」

「いーや!」


 冷静なときならこんな初動はしなかったのにと悔やまれるが、私は真正面から甥っ子のサングラスを奪おうとしたので甥っ子の機嫌を損ねてしまった。甥っ子はサングラスを手に持って精一杯高いところにやる。


「ごめん、ごめんね。ちょっと見せて。すぐ返すから」

「いや!」


 甥っ子はまた走って逃げる。私は何だかムキになって必死で追いかけてしまった。


「おっととっと食べさせるから! トミカの形のおっととっとが入ってるやつ!」


 甥っ子におやつをあげる提案をしても、甥っ子は嫌がるばかりだ。しまいには「おーっとっと」とわざとらしくよろけ、サングラスが無事かと目を見張る私を面白そうに見る。


「おーっとっと」

「○○ちゃんやめなさい。本当に壊したらどうするの」

「おーっとっと」

「○○ちゃん! ほら落とした!」


 廊下の床にくまさんARサングラスが落ちてしまった。私は慌てて拾おうとするが、もう遅い。


「おーっとっと」


 嫌な音がして、見るとサングラスは潰されていた。私は悲鳴を上げる。何てことを……。未来のアイテムが……。


「壊れたあー!」


 甥っ子は案の定号泣する。自分でやっておいて……。もうやってしまったのだから仕方がない。私はARサングラスを燃えないごみ入れに入れて、甥っ子をなだめる。段々落ち着いてきていつの間にかケロッとしていた甥っ子は、気づけば未来の子供服をがさごそといじって脱いでいる。いつもの子供服がいいらしい。私はお着替えを手伝った。未来のおむつは汚れているのでふつうに捨てた。


「そういえばさあ、○○ちゃんから見たおばちゃんは悪い人だった? いい人だった」


 私が聞くと、甥っ子はにやりと笑った。


「なーいしょ」


 気になって仕方がないが、これ以上深く聞かないことにする。また泣かせたり逃げられたりしたら面倒だからだ。


「そういえば未来でおばちゃんを見たよ」

「はっ? 何? どうだったおばちゃんは?」


 食い気味に聞くが、甥っ子はまた「なーいしょ」と笑うばかりである。いくら問い詰めても同じだ。


 その日は一晩中悶々とした。









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