第29話 クッキー
「ちょっと直也。買い物行ってきてくれる?」
自分の部屋でぼんやりしていると、母親がやってきてそう言った。
「お昼ご飯張り切って作りすぎちゃったから、冷蔵庫が弱ってるのよ、お願い」
「弱ってるって……。ていうかちゃんと考えて量を作ろうよ」
しぶしぶ立ち上がったが、こうして何の目的もなく座っていてもどうしようもない。気晴らしに外に出かけるのも、悪くはない。買い物のメモとお金を受け取って、僕は家から外にでた。
歩き出す。
すぐに、おかしなことに気がついた。背後に――明らかに、誰かがいる。そいつは僕が足早になると同じように足早になる。振り返ると、身を隠すのか誰もいない。しかし、背中に突き刺さる視線は、いかにも気づいてくれとばかりの主張が激しいものだった。
まるでちぐはぐな尾行。
その意図を読み取れないまま、僕は歩き続けた。どうすればいいのか、分からない。ただ危害を加えてこないならば、何か手を打つ必用も感じられない。結局答えがでないまま、スーパーマーケットへとたどり着いた。野菜売り場、肉売り場と順に回っていき、最後に『ついでにキャンディーよろしく☆ 美味しそうなやつ』と書かれていたので、お菓子売り場へと向かった。
美味しそうなやつってどれだよ、と思いつつ色とりどりの飴袋が下げられた売り場を見つめる。
サク――っ。
何かの咀嚼音が真後ろから聞こえた。それは、真後ろという表現では生ぬるいほどの至近距離に感じた。あまりに不気味すぎて、動けない。そのあいだもサクサクサクと、咀嚼音が続いていく。
最後にごくんと喉を鳴らす音が聞こえて、不意に僕の腹へと手が回ってきた。左腕だけで抱きすくめられる形。そして、その細く白い腕には、かすかな見覚えがあった。手にはつまむようにして、白いビニール袋に入ったクッキーを持っていた。
「なおや」
くすぐったい息遣いとともに、甘ったるい声音が耳に届く。振り向かなくても、分かる。
「雛乃……ッ」
背後でからからと、買い物カートが通りすぎる音がする。昼間っからお熱いのねと言わんばかりのため息も聞こえた。のどかな昼下がりのマーケット。しかし僕には、世界が一変したようにしか思えなかった。
「ねえ直也。今日、花蓮ちゃんを家にあげてたよね? ねえ、なんでそんなことしたの、ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ? ねえ!?」
そして聞こえてくるのは、雛乃のそんな声。ちょっとずつ声音を変えながら、彼女は『ねえ』と繰り返す。
「あ、あれは……か、花蓮が勝手についてきただけで……。て、ていうかなんでそんなことを知って……」
絞り出すようにそういうと、フンと鼻を鳴らす音がした。
「花蓮、ねえ……。呼び捨てなんて、仲がいいんだね? 私というものがありながら……っ」
僕の疑問には一切答えず、底冷えするような静かな怒りの声音で、雛乃はそう囁いた。
一体――彼女はどうしてしまったのだろう。
腹部に鈍い痛みが走る。気がつくと、雛乃の指先がクッキーの袋と一緒に、僕の腹をつまんでいた。
「ねえ、直也?」
ギリギリと、つねられた腹がねじられる。ついで、爪を突き刺すようにして雛乃が指を動かす。確かな痛みが、僕の脳へと持続的にやってくる。
ふっと、その痛みが緩んだ。
彼女が手を離し、こつんと足音が聞こえた。ようやく、僕は振り返って雛乃と向き合った。一歩だけ僕から離れた彼女は、それでもまだ僕のすぐ近くに立っていた。
彼女は、白いワンピースを来ていた。初めてのゲームのときに来ていた服ではなく、また別のワンピースだった。短くなった黒髪には、四葉のクローバーの髪飾りが付けてあり、左側だけに小さな三つ編みが結われていた。
そして表情は――まるで泣き出しそうな顔で、瞳は死人のように濁っていた。
「私との約束、忘れちゃったのかな……?」
「約束……」
「……最後の日に――」
頭の中に衝撃が走った。
なぜ――今の今まで、忘れていたのだろう。姉さんのことで、頭がいっぱいだったから? しかし、それは言い訳にしか過ぎない。
僕の表情から、何かを読み取ったのだろうか。雛乃は涙を浮かべた。そして、サッと彼女は踵を返す。右手に持ったクッキーの袋を、彼女は床に投げ捨てた。
「待って! 雛乃……ッ!!!」
コツコツと歩いていく彼女の背中を僕は大声で呼び止める。スーパーの客が驚いて、一斉に僕の方を向いた。しかし、こんなことでは止まれない。僕には、言わなくてはならないことがある。
「裏切らない!」
きっと、痴話喧嘩のたぐいだと思われるだろう。羞恥心がかすめる。僕は爪が食い込むほど拳を握り、それを振り払った。
「裏切らない! 約束する! 言葉じゃ信じてもらえないなら、次は行動で示す……ッ!! 雛乃! 覚えておいてくれ! 僕は、約束を守るからッ!!」
彼女の歩みが止まって。一瞬だけ僕を振り返る。
そこには、瞳の奥で少しだけ輝いた光があって、口元は、笑いかけのような半端なものだった。
そんな表情を残して、彼女はスーパーから外へと出て行った。
ひとり取り残された僕は、雛乃が投げ捨てたクッキーの袋を拾う。
それは、町田駅で再会したときに、僕が渡したものだった。
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