Her Antinomy

津川肇

True?

 綿貫真わたぬきまことは、嘘をつかない。というより、つけないのだと思う。

「昨日さ、UFO見ちゃったの」

 今日のためにまことが用意してきたらしい嘘はやっぱり下手で、僕は思わず噴き出した。

「もう、ほんとなんだってば」

 真はまるい頬をさらに膨らませ、ぽてっとした唇を尖がらせる。拗ねている顔もいとおしい。僕はそう思いながら、氷が溶けて味の薄くなったりんごジュースを一口飲んだ。毎週水曜日の午後、僕らは空きコマを使い、大学の隅にあるカフェ『S. nigrum』でデートする。学部の違う僕らが学内で一緒に過ごせる、唯一の時間だ。真は週のほとんどを僕のアパートで過ごすけれど、家でのデートと外でのデートは気分が違う。

「エイプリルフールだから考えてきたんだろ?」

 僕がからかうと、真は「バレたかあ」と悔しそうに言って、BLTサンドを頬張った。真が「美味しい」と糸のような目を細めるたびに、肩の上で切り揃えられた黒髪が跳ねる。何を考えているのか本当に分かりやすい。そんな正直なところが、すごく好きだ。真と初めて出会ったのは、去年の春、この大学に入学してからだ。僕は真に一目惚れした。偶然地元が同じで、大学から一人暮らしを始めたこともあり、僕らはすぐに打ち解けた。出会って一か月ほど経った日、夜の公園で告白をした。


「今日のケーキと、コーヒーください」

 いつの間にか昼食を食べ終えた真が、店員を呼び止めて注文を追加した。いつものことだ。真は食べたいものを我慢しないし、欲しいものは絶対に手に入れようとする。そして、言いたいことは何でも素直に口に出す。一人っ子で大事に育てられたせいだろうか。そんなはっきりとした性格のおかげか、僕らは一度も喧嘩をしたことがない。


「ねえ、このカフェ、豆変えたのかも」

 運ばれてきたコーヒーを一口啜り、真が声をひそめて言う。まるで少女が秘密の宝箱を見つけたかのように、小さな黒目がきらめいている。

「え、味変わったの?」

 僕もなんとなく声をひそめる。

「うん、すっごく美味しくなってる。前はインスタントみたいな味だったのに。ねえ、一口飲んでみて」

 真がコーヒーカップを僕の方に寄せる。右手に持ったジュースはもうほとんど水になっていたから、本当は少し飲ませてほしいくらいだ。ただ、甘党の僕にはやっぱり、コーヒーは魅力的には映らない。

「僕が苦いの飲めないの、知ってるだろ」

「ほんとに美味しいんだよ」

 真がおもむろに僕の右手の甲に左手を重ねる。赤ちゃんのようなぷくぷくとした手の、柔らかい感触が伝わってくる。それから、「コーヒーって、意外と甘いの」と囁く。真の上目遣いに僕は弱い。確かにコーヒーは大抵甘いから、たまには飲んでみてもいいかもしれない、そう考え直して少しだけ口に含む。

「苦いよ、このコーヒー!」

 僕は予想外の苦みに驚いて、思わず舌をうげえと出した。真は「だよねえ」と不満そうに呟いた。


 水曜日のカフェの他に、もう一つ僕らのお決まりのデートプランがある。僕が一年前に告白をした思い出の公園で、毎月の記念日を祝うことだ。お祝いといっても、特別なことをするわけではない。ただ公園のベンチに座って、他愛もない話をするだけだ。一年記念日の今日もそれは変わらない。

「――それでね、ミクロ経済学に野良猫が勝ったってわけ」

 真が缶コーヒーを片手に延々と話し続ける。僕は苦いのは飲めないから、今日もジュースをお供に話半分に聞く。僕は、自動販売機に照らされた真の顔を眺めるのに忙しかった。

 

 ただ、いつも気がかりなのは、帰り際にいつも彼女が不安定になることだ。毎月の記念日の夜だけ、真は酷く気分が落ち込む瞬間がある。それは大抵、公園で一時間ほど過ごしたあとに訪れる。さっきまで朗らかに話していた真の表情は暗く沈み、小さな黒い目はビー玉みたいに僕を見つめる。それから黙って僕に抱きつくと、真は静かに泣く。ひとしきり泣いたあと、僕の腕の中で真は必ずこう尋ねる。

「わたしのこと、ちゃんと好きだよね?」

 これでこの質問を聞くのは十二回目だ。付き合った一か月記念日から、このやりとりは一度も欠かしたことがない。

「僕は、真のこと好きだよ」

 僕は真の手を取り、十二回目の返事をする。「好きだよ」という淡白な返事では真は納得しない。僕が、真を、好きなんだ、そうきちんと伝えないと不安になるらしい。きっと、真の心の奥にはいわゆるメンヘラな気質があるのだろう。このいつものやりとりは、好きかどうかの確認だけに留まらない。当たり前のことをいくつも確認して、最後に「わたしは、綿貫真だよね」と確認すると、やっと真はいつもの真に戻る。真は、どうして自分という存在が不確かに思えるほどに心を病んでしまったのだろう。いつからそんな漠然とした不安に悩んでいたのだろう。いつか、彼女の心の闇を僕が晴らしてあげたい。そう思うのに、僕はただ彼女を強く抱きしめてやることしかできずにいた。

 いつもは手を繋いで一緒に僕のアパートへ帰るのに、「今日は自分の家に帰る」と真が言うので、僕は彼女を家まで送り届けた。


 その翌日のことだった、真が亡くなったというしらせを受けたのは。そしてその夜、僕の部屋に置かれたままの真の荷物を整理していると、一冊の日記を見つけた。

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