死までの適正な距離

 数日前、シェアハウスで蟄居していたとき、「えりぞうという人間は『死』『殺』までの距離が近すぎるのではないか」と言われた。


 確かにそうだな、と思う。物心ついたころ、一番好きな親戚である母方の叔父は自殺未遂を繰り返して入院させられていたし、母親は「弟は弱い!私は子育てが終わる50で死ぬ!」と言っていた。実際には54、肝臓癌で死んだ。


 なんというか、幼いころ、好きな人々は死にたがりだったのである。


 母親が仲良かった幼馴染の一人は俺も好きだったが、40過ぎで自害している。俺は10代の半ばだった。母親は残念がっていたが、しかし何処かに「あっぱれである」という表情が覗いていると感じていた。その数年後、俺が21歳のときに母親は余命を宣告されている。


 母親はその7年後に死ぬが、死にぶりは見事なものであった。母親はもともとなんだか知らないがやけに演技くさい人間である。「私はこのように振る舞って死に向かう」という演技をやりきったのだろう。少なくとも俺にはそう見えた。やせ我慢という部分も大いにあったと思うが、ほぼ家族には死を厭うような素振りを見せたことはない。


「私だって死ぬのは怖いよ、でも~」


 という発言が俺が聞いた唯一の弱音と思える発言だろうか。本音は多分だが、俺や弟、家族友人には言えず、当時既に倒れ、病床にあった母、俺の祖母にしか口に出していないと思う。


 その祖母、祖父、曾祖母を看取ったあと、「これで心残りはない。いまが死ぬには一番良い時期だ」 と言って翌年に死ぬ。


 そのせいか、未だに死をひどく格好いいものだと思う。皆がそれを望んでいるかのような気がしている。


 だがそうではないんだろうな、と今は思う。皆が皆、死を待ち焦がれているわけではないのだ。母親は異常であった。叔父は精神障害、今でいう双極性障害だった。


 ただそれだけの話である。

 

 俺は長生きを目指すことにした。周りの人間にも長生きして欲しい。

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