第4話 名前

「この子の名前は?」

 と美子さんが尋ねた。

「かぐや姫?」

 と彼女が尋ねた。

「違う」と俺が言う。

「月に行って涙するヒロインの名前なんて俺は絶対に付けない」 

 出生が似ているからといって物語の結末が悲しいヒロインの名前を俺は付けたくなかった。

 俺は赤ちゃんには幸せになってほしいと思った。

「俺が付けてもいい?」と俺は尋ねた。

「もちろん淳君が付けてもいいよ」と彼女が言った。

 美子さんは柔らかい産毛を撫でるように、赤ちゃんの頭を触った。そして自分のおっぱいを吸う赤ちゃんを愛おしそうに見つめていた。


 俺は家に帰る道中に名前を考えていた。

 誰でも簡単に覚えられる名前がいい、と俺は思った。俺が考える名前は日本的である。だからコチラの世界の人には覚えにくい。

 日本的でありながら異世界でも覚えやすい名前を考えていた。

 まず初めに思いついたのがモモだった。モモちゃんなら可愛い響きだと思う。だけど桃太郎を連想してしまうような気がした。桃太郎は鬼を倒すために冒険に出るのだ。この世界には魔王がいる。死ぬかもしれない冒険に出る名前は嫌だった。

 そこから文字の羅列は覚えやすい、ってことでア行から名前を羅列していった。


「ネネ」

 と俺が言う。

「ネネちゃん?」

 と美子さんが尋ねた。

 ポクリと俺は頷く。

 漢字で書けば寧々ねねになる。寧という漢字には穏やかで落ち着いた心という意味がある。


「こんな魔物がいる世界で、この子には安寧あんねいを手に入れてほしいんだ」

 と俺が言う。

「安寧?」

 と美子さんが首を傾げた。

「平和で安心して暮らすことができる状態のことだよ」と俺が言う。


 妻が赤ちゃんを包んでいるポンチョを脱がせて股間を見た。

「やっぱり女の子なのね」

 と美子さんが言って、すぐにポンチョに包み直した。

「それにこの子は日本人っぽいよね」と美子さんが言った。

「もしかして、お母さんのお腹の中で転移して来た子かもしれない」と俺が言う。

 美子さんが首を傾げた。

「初めて赤ちゃんに会った時、この子は胎児だったんだ」と俺が言う。

「俺の腕で今のサイズまで大きくなったんだ」

「日本人同士の捨て子か、あるいは胎児召喚か、転生者ってこともあるかも」と美子さんが言う。

「たしかに」と俺は頷く。

「どちらにしても今はわからないわね。赤ちゃんが喋るって訳じゃないから」と美子さんが言った。


 それから彼女はおっぱいを必死に吸っている赤ちゃんを見つめた。

「……私達で育てようか」

 妻は内緒話をするように、小声で言った。

「そうしよう」と俺は同意した。


 ネネちゃんが乳首から口を離した。

「もうおっぱいいらないみたい」

 と妻が言った。

「可愛いね」と俺が言う。

「可愛い」と妻が言う。

 俺達はジッと赤ちゃんを見つめた。


 しばらくすると2人に見つめられたネネちゃんはゲローーーと口からミルクを吐き出した。


「うわぁ」

 と美子さんが小さく叫んだ。

「切れ布」

 と俺は呟きながら箱から切れ布を取り出す。こちらの世界にはテッシュがない。だから使い物にならなくなった布をテッシュ代わりにしている。

「ゲップさせなくちゃいけなかった」

 と彼女が悔しそうに言った。

「日本にいた頃に赤ちゃんの本を読んで準備してたのに失念してた」


 妻は恐る恐るネネちゃんの頭を支えながら縦抱っこして、背中を摩った。

 俺はネネちゃんが吐いたミルクを拭いた。


「後で……おっぱい貰ってもいい?」

 と俺は妻の服を拭きながら尋ねた。

「ダメ。おっぱいはネネちゃんのモノなんだから」

「いや、俺も頭を怪我したからおっぱいでも治るのかなって思って」

「キッチンの上にジュース作って置いてあるわよ」

 と美子さんが言った。

「おっぱいでも美子さんのユニークスキルが発動するか実験しとかなくちゃ」と俺が言う。「そうじゃないとネネちゃんが怪我した時に対処できないから」

「ダメ」と美子さんが言った。「これはネネちゃんのモノだから」


 さようですか、と俺は言う。

 縦抱っこされたネネちゃんが「ゲフ」と口から空気を出した。

「えらいね。ゲップできたの」と妻がネネちゃんを褒めた。

 ゲップが超可愛い。

「見てないで淳君もジュース飲みに行ったら?」

 と妻が言う。

 はーい、と俺は言ってキッチンに向かった。


 壺の中に妻特製のジュースが入っている。

 コップにジュースを注ぐ。そして飲んだ。とある清涼飲料水に似ている味だけど甘みは少ない。

 殴られてズキズキした痛みが消えていく。

 彼女が作った食べ物には回復する効果が付与される。それが妻のユニークスキルである。


 俺はキッチンから妻とネネちゃんを見つめた。

 妻はおっぱいを露わにして微笑みながらネネちゃんを抱っこしていた。

 胸がギュッと痛くなった。美子さんは体外授精を止めた夜に子どもを産めないと泣いていたのだ。

 俺は美子さんに我が子を抱っこさせてあげたかったのだ。

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