いつか登坂さんを芽衣ちゃんって呼びたい

金澤流都

1 保健室の遭遇

 体育の時間に突き指をして、ちょっとこれは早退して医者にいかないと……ということになった。指は腫れてジンジン痛い。しかし僕の家は学校からちょっと遠いので、母さんが車で来るのを待つ間ただただ痛いのを我慢するしかない。


 保健室には先客がいた。セーラー服のリボンの色で僕と同じく2年生なのは分かるのだが、いままで顔を合わせたことのない女子だ。無心、といった様子で、小さな本を眺めている。

 表紙から察するに将棋の本のようだ。ただただ痛いのを我慢するよりならなにか話したほうが気が紛れるだろうと、

「将棋好きなの?」

 と声をかけてみる。


 その女子は僕を、風呂場の排水溝に溜まった髪の毛でも見るように一瞬嫌な顔で見て、それから少し黙ってから、

「そうやって声をかけてくる男子が将棋好きだったためしはないから無視させていただきまーす」

 と、ちょっとおどけたような口調で言った。


 僕は真面目に返事をした。

「将棋わりと好きだよ? 弟が小学生で、学童保育で覚えてきて僕と打ちたがるんだけど、ぜんぜん勝てなくて恥ずかしいし悔しくて」


「将棋は『打つ』んじゃなくて『指す』ものだよ。なに、弟さんに勝てないの? 棋力どれくらい? 何級?」


 急に小声の早口で言われてびっくりする。

「きりょく……ってなに?」


「どれくらい指せるかってこと。指してみる?」


「う、うん」


 その女子はものの良さそうなサッチェルバッグからタブレットを取り出した。なにやら将棋のアプリを起動して、対局モードを始めた。向かい合う。いつも弟と指すときと違って僕が先手だ。


 ええと。どうすればいいのかな。とりあえず角のラインを遮っている歩を進めた。弟と遊んでいるのでそれくらいは分かる。

 女子は迷わず飛車の前の歩を進めてくる。それから僕がどうすればいいか分からないで指しているうちに、女子の銀が飛車の前をどんどん進んできて、気がついたら女子の飛車と角が成っていた。

 マジで一瞬だった。完全なるボロ負けだ。どうやっても、攻めることも守ることもできない。


「ふーむ。12級ってとこかなあ」


 女子はしみじみと言う。


「すごいね、強いんだね」


「そりゃそうだアマ六段だもん。公民館で毎週やってる将棋道場でも負けることはめったにないよ」


 アマ六段。どれだけ強いのこの人。


「そんなに強いならプロとか目指せばよかったんじゃないの?」


「あー……わたしはね、普通の子でいなきゃいけないから。それにもう研修会だ奨励会だっていうのも無理な歳だし」


「そういえばなにかで聞いたことあるな。将棋のプロ志望って若くないと入会試験すら受けられないんだよね。変なこと訊いてごめん」


「気にしないで、よく言われることだから。うん」


「ずっと保健室にいるの? それとも親御さん待ち?」


「授業が低レベルすぎて目眩がするから、結局保健室で自習してたほうがはかどるんだよね。それじゃ出席日数足りなくなるんだけど、テストで赤点なしなら案外ゴメンしてもらえるよ」


 この学校は基本的にバカ高である。僕は弟の小児喘息で空気のいいところに引っ越そう、と父さんが引っ越しを決めたので、せっかく努力して受かった東京の大きな高校を辞めてこの学校にきた。もっと別のところがよかったと今でも思っている。


 だいたいトトロの時代じゃあるまいし、現代日本に空気のいいところなんてあるんだろうか。引越し先はわりと山の中だったが、普通に自動車も走っているし。


 妙にセクシーな保健室の先生(養護教諭というのが正式名称なのは知っているが、保健室の先生と言ったほうがロマンがあるのでそう呼ぶ)が、窓の外をちらっと見て、


「真殿くん、お母さんいらっしゃったんじゃない?」

 と声をかけてきた。


「あー、そうっすね。帰るっす……あ、そうだ」


 僕は将棋メチャ強女子のほうを見た。


「名前、なんていうの?」


 将棋メチャ強女子は軽く驚いた。

「わたし? 登坂芽衣。あなたはマドノくんっていうの?」


「うん、真殿飛鳥。キラキラネームだ」


「ジャージの名前を見るに飛鳥時代の飛鳥でしょ? 親御さんの教養を感じるけど」


「そうかな。クラスのやつらにはキラキラネームってよく言われるよ。エヴァだとかチャゲだとか」


「ここバカ高だからねー。気をつけて帰ってね」


 そこまで話して、リュックを背負って保健室を出た。おしゃべりをやめた途端激痛がした。


 その後近くの外科で診てもらって、ちょっと派手目の突き指だということがわかった。しばらく体育は見学しなさいとも言われた。

 薬を飲んだり塗ったりしたら痛いのが静まったので、きょうやるはずだった授業の範囲を確認し、コツコツと例題を解く。いつまで待っても近くの同級生からプリント類は届かなかった。


 しかし登坂さんはすごかったなあ。将棋が強いひとって本当にいるんだ。登坂さんに教えてもらって弟をギャフンと言わせられたらいいのに。


 次の日、学校で突き指を面白がられて(この学校は本当に民度が低くてビックリする)、本来近くに住んでるやつが届けてくれるはずだったプリントを受け取った。

 そいつは面倒だし明日でいいかーと思ったようだったが、先生にこっぴどく叱られていた。

「真殿、きょう提出の課題はいい」と、先生は言った。やったぜ。

 どうにか腫れた指で頑張ってノートを取り、昼休みになった。僕は弁当を持って保健室に向かった。登坂さん、いるといいなあ。

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