父と母の家

 脚立をのぼり、屋根の上に顔を出す。白っぽい塗料でくっきりと描かれた魔法陣にデジカメを向け、する。図形の周囲に散りばめられた呪文の一部が置き換わり、その影響で図形の線もじわっと歪んで、少し形を変えた。


 全体的に、手堅い印象の呪文だった。不要な装飾や自己主張がなく、アクシデントにも強い。例えば経年劣化で塗料が薄れたり、瓦が欠けたりしても、残った部分で自動的に元の機能を取り戻す仕組みが用意されている。更に、呪文が予想外の動きをした場合は魔法陣全体が緊急停止し、自らを消去する予定だったようだ。ただ、その仕組みは何らかの不測の事態が生じて働かなかったらしい。


 脚立を降りて引き返すと、寝室の隅ではシュウノが電話で話しながら馬鹿笑いを続けていた。封筒に印刷されていた株式会社プラの電話番号に掛けたようだが、俺にはシュウノの発言しか聞こえないし、そのシュウノは大半の受け答えが「ふはははあははは」なので、どういうやり取りになっているのやら。電話をするふりをして漫才の放送でも聞いてるんじゃないかという気もしてくる。


 まあ、俺の仕事には影響がないのでどっちでも良いが。


 デジカメをパソコンに接続し、の結果を取り込む。魔法陣に起きた変化を確認しながら、次の処理を考える。書かれた場所と塗料の問題で、魔法陣そのものを物理的に消せないのが少し面倒だが、解呪自体は難しくなかった。脚立を使って屋根と寝室を往復し、魔法陣を少しずつ変形させてその機能をひとつずつ切っていった。


 仕事があらかた終わっても、依頼主は現れなかった。その代わりに、ニセノが到着した。


「いやはやー、ご縁がありますねえ!」

 無地のシャツに無難なネクタイとジャケットという、先日に比べればだいぶ地味な装いだったが、喋り方は相変わらず死ぬほどウザい。返事をするだけで気力を吸い取られそうだ。


「ここに魔法陣があったんですか?」ニセノは寝室の入口に立って興味深そうに部屋の中を見渡した。

「この上な」俺は脚立を片付けながら、天窓を見やった。

「ああ。へえ、屋根の上?」

「もう終わった。俺は帰る」

はどこですか?」とニセノは言った。

「クラリィ?」

「あれ? ここ、クラリィの家ですよね。依頼を受けたんでは?」

「いや、知らん。依頼人とはここで落ち合う約束だったけど、結局来ないな」

「だからそれがクラリィでしょう」

「は? 普通の三十くらいの会社員だけど」

「だからそれがクラリィでしょう」

「え?」

 しばらく会話が噛み合わなかった。


「へえ、じゃあ、事情は知らされずに解呪のお仕事だけ受けられたんですか」

 ニセノは首を傾げ、寝室に入ってきてダブルベットの端に腰掛けた。

「先日申し上げたでしょう? わたくしの仕事について」


「蘇生師!」コンパクトデスクの前の小さな椅子に掛けていたシュウノが、元気良く言った。


「そう、死者の国で生者が亡くなった時に、その方の肉体の時間を現世に帰らせるのが、わたくしの仕事です。お電話いただいた時点でお察しの通り、この家の住人にわたくしは以前、ご依頼をいただいてます。当時、還暦を迎えたばかりだったご夫婦から、一人息子でシンガーソングライターのクラリィこと倉橋としさんの蘇生を」

「倉橋……」それは今回の依頼人の名前だった。

「おそらくあれから十年は経って、彼の戸籍年齢は現在三十過ぎかと思いますが。藍村さんのご依頼人はその方ですよね?」

「ああ、この家を両親から引き継いだそうだが、魔法陣の妨害で取り壊しができなくなっていた。けど……」

「それなりに売れたこともあるシンガーソングライターだなんて聞いていなかったでしょうかね? まあそれも已むなしと言いましょうか、なにぶん現在の倉橋さんには自分が歌手のクラリィだったときの記憶がありませんからね。彼は死者の国に観光目的で滞在中に、不慮の事故で頭を強打して一度亡くなっています。しかしその状況にかなり不審な点が多かったため、自殺の可能性が否定できないと判断され、両親からの証言とも照らし合わせて直近十年間の記憶を消した状態で蘇生いたしました。蘇生後にどの時間線から戻すのか、についても各種選択肢はあったのですが、お母様の強いご希望でそのまま、その時点での『現在の現世』に帰らせました」

「それって……」

「つまり、二十歳過ぎで夭折したクラリィの半生をキャンセルし、十歳程度までの記憶しか持たない少年として取り戻し、改めて十年間育て直すことにしたわけですね」

「……げえ」シュウノが変な声を上げた。


 妻も子供もいない俺には、それがどの程度のことなのかはピンと来なかった。

「その場合って、見た目も子供に戻るのか?」

「まあ、そうですね。わたくしの技術は単に時間を巻き戻す操作ですから」

「本人だけが十年前の自分になって、周りはそのままか」


 彼の主観としては、十歳でいきなり十年後の世界に飛ばされたようなものだ。しかも、周囲の人間はそれまでの彼の十年間の人生を知っていて、本人だけが知らない。


「ああ、そうか」俺はシュウノを捕らえた路上のトラップや、屋根の上に仕込まれていた強固な呪文を思い返した。「防犯の魔法は、クラリィの動向を知りたがるファンや取材陣をかわすためか……」

「もっと他にやることがあったでしょうに」シュウノは椅子に座ったまま姿勢を崩し、心底げんなりした顔で言った。「息子が不審な死に方して今までの十年キャンセルして戻ってきたってのに、壁に落書きしたり屋根に落書きしたり、暇な父ちゃんだこと……父親だよね? この家に色々仕込んだのはさ」

「そうなのかな」依頼人の親の家と聞いていたから、呪術を仕掛けたのも親なのだろうとは思っていたが、それがどちらの親なのかまでは考えていなかった。

「だって藍村君が脚立に乗ってようやく作業できるくらいの高さだよ。玄関の上のところの魔法陣も、屋根の上もさ。普通に考えて男性じゃないのかな。お母さんがめちゃくちゃ大柄で身軽な人だった可能性も、まああるけど、それこそ息子の十年間を取り消して育て直すとか言ってる時にそんな暇があったの? て感じだし」

「まあ、確かに……」

 息子の人生の大幅なやり直しを強行した母親と、素人仕事の呪術に熱中した父親。シュウノがずっと指摘していたこの家の奇妙さは、そういうところにあったのかもしれない。


「あんたもなんだ、大概ろくな仕事してないな」俺はニセノを見て言った。

 ニセノはけろりとした顔で、ベッドをソファ代わりにして寛いでいる。

「まあ、ねえ、ご依頼はご依頼ですし、それで人ひとりの命が助かるなら、しないという選択肢もありませんし」

「けど、十年はやり過ぎだろう。しかも二十歳過ぎの子を十歳に戻すなんて……三十代を二十代に戻すのとは全然わけが違うぞ」

「確かに悩ましい問題ですよ」

「悩んでるふうに見えねえんだよな」思わず、溜息が出てくる。

「まあ結局ね、そういうことなんですよ」と、ニセノは何故かニコニコして俺を見上げた。「死者の国の絡むお仕事は常にこういったことばかりでしょう。技術的なことと倫理的なことの両方。それをどう折り合って、お客様のニーズに応えつつ、会社としての利益も確保するか。一筋縄じゃいかないことばかりです。ですから、弊社は今、技術論の部門を立ち上げたく、有識者を集めておりまして。藍村さんのように呪術の知識に長けていて、なおかつ死者の国でも現世でもほぼ分け隔てなく仕事を受けておられる、そういう方の知見は大変有用なはずなんです」

「……また、その、ヘッドハンティングの話?」

「そうですけど」ニセノはきょとんとした感じで首を傾げた。

「俺、何回も断ってるよな」

「けど毎回ろくに聞かずに断られるから」

「うん、今初めてまともに聞いたけど、やっぱ心が動かないから、改めて断るわ」

「なんでですかあ」ニセノはダブルベットにゴロンと倒れ込んだ。「もう、今日こそ絶対オーケーもらえるかと思って、わざわざ来たのに!」

「なんでそんなポジティブなんだよ。てめえんとこの都合とか知らんて」


 俺はノートパソコンを鞄に仕舞い、帰り支度を始めた。結局依頼人とは会えなかったが、仕事は完了したしメールで報告すれば十分だろう。彼の過去を知ってしまった今となっては、わざわざ直接会うのもなんだか気まずくなりそうだ。


「しかし変だねえ」シュウノがぽつりと言った。

「何が?」と俺は言った。

「依頼人はどこに行ったのかな」

「さあ、仕事が忙しいんじゃないのか」

「防犯トラップに掛かってる可能性は?」

「いや、お前と同じあのトラップに嵌っただけなら、とっくに脱出してるはずだし……解呪も滞りなく済んでるから、ずっと捕まってるはずはない」

「それとは別の魔法がどこかに無い? お父さんが書いたものではなく、お母さんが書いたものが、この家のどこかに」

「ええ……一応全部探したと思うけど」


 わかりやすい場所にあったのは、父親が書いたらしい玄関と路上と屋根の魔法陣だけだった。依頼の内容は「家の解体を妨げているものを見つけて取り除くこと」だから、そこが達成された時点で俺の仕事は終わっている。他に何らかの呪術がこの家に仕込まれていたとしても、家の解体に影響が無いものであれば、普通に見落としている可能性はある。


「ずっと気になってたんですけど、その鏡が変ですよね」ニセノがベッドから起き上がり、寝室の隅の割れた姿見を指した。


 一度粉々に砕けたらしいが、破片を集めて透明なテープで貼り合わせてある。おかげで覗くたびに自分の姿が歪みながら重複して映り、鏡としてはまったく使えない。


「たぶんこれ、呪文が仕込んでありますよ。割れる前からだと思いますけども」ニセノは立ち上がって、姿見に歩み寄った。


 飄々とした笑顔が無数に割れて映り込んだ。

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