第35話 間違った選択

「兄者、最近、嫌な事でもあった?」


 肌寒い風が吹くようになったある朝。朝食を食べていると唐突に妹が怪訝な顔をしながら聞いてきた。


「なんだよ急に」

「いや、最近、機嫌が悪いように感じるんだけど……」

「何でもねぇよ」

「ほら、その返しとかさ」


 妹の鋭い指摘に言葉を詰まらせた俺は、言い訳をするかのように朝食をかき込んだ。

 あっ……。佃煮食ってねぇや……。

 好物の一つである海苔の佃煮を食べる事も忘れて、俺は手を合わせて逃走を図る。


「兄者。話してくれないと分かんないよ?」


 引き止めようとする薫に、なんでも無いと返して家を出る。

 あいつに世話を掛けさせたくない。と言うか、他人に話すほど行き詰ってはいないのだ。ちゃんとこの妙な苛立ちの原因は分かっている。この自分の内に発生した攻撃的な感情は昔から知っているからだ。

 自己嫌悪。最近は少しマシになったと思っていたが、どうやら勘違いだったみたいだ。これが再び噴出した原因は一つ。


「おはよう、松瀬川君」


 亀水 咫夜だ。

 最近は、よく下駄箱で顔を合わせるのだが、その都度、俺に挨拶をしてくる。

 別に人としては正しいのだが、俺としては困る。と言うのも彼女が俺に対して挨拶や言葉を投げかける度に、周囲の人間が妙によそよそしい態度を取るのだ。実に気持ち悪い。

 だがしかし、俺の苛立ちの原因は彼らじゃない。原因は亀水 咫夜本人にある。

 自慢じゃないが、俺は学校のアイドルと呼ばれる彼女と男女の仲になった。だが誰もが羨むような、イチャイチャで砂糖大盛りのお菓子のような甘い生活を送っている訳じゃ無い。むしろ何も進展が無いままだ。俺の苛立ちの原因はまさにそこだった。

 俺は確かに彼女に告白をした。しかし好きだから告白をしたのでは無い。寧ろ嫌われる為と言った方が正しい。

 俺と彼女との関係が公に知らされた当初、俺は彼女の好きな相手は長生 内斗であると思っていた。その為、俺が彼女に告白しても断られると予想していた。彼女の為、俺の日々の平穏の為に、俺は彼女との関係をハッキリさせようと敢えて告白と言う手段を用いた。

 結果、彼女は俺の申し出を受け入れた。俺と彼女は正式にお付き合いをすることになったのだ。

 何故? そんなのは俺が聞きたい。

 ただ、一つ分かっている事がある。それは、これも俺への復讐の一環だと言う事だ。あの日、日陰の向こうに見た彼女の薄笑いに、俺とすれ違う時の謝罪。これらは恐らく、好機を見つけた嬉しさと少し親しくなった俺への罪悪感の表れだ。俺はそう受け取った。

 これから彼女は復讐に動くだろう、そう思っていた俺だったが、不思議な事に彼女に大した動きは無かった。今まで通りの生活を送り、今まで通りの彼女との関係を続けるだけだった。

 何故、俺に対して何もアクションを起こさない? 俺は君に殺されてもおかしく無い事をしたんだぞ?

 彼女への不安と恐れは次第に膨れ上がり、苛立ちへと変化していった。


「ああ……」


 適当に挨拶を返した俺は、足早に教室へと向かった。すぐ後ろを付いてくる彼女の足音が聞こえるが、気にする必要は無い。俺と彼女は一緒に居てはいけないのだ。

 教室に入るなり自席に突っ伏した俺に、遅れて入って来た亀水が心配そうに尋ねる。


「松瀬川君? 大丈夫?」


 彼女の顔を見ないまま大丈夫だ、とだけ答える。

 復讐する相手を心配してどうする……。いや、これも彼女の復讐の一部なのだろう。だが回りくど過ぎる。昔の事で慎重になっているのか? ならこちらからアクションを起こして手助けしてやるか……。


「本当に大丈夫?」


 尚も心配する亀水の言葉に合わせて、俺はスッと立ち上がり彼女を見下す。


「うるせぇなぁ。何度も聞くんじゃねぇよ! ムカつくんだよ、その良い人ぶった態度がさ!」


 俺の突然の怒りに対して一瞬、驚きの表情を見せた亀水は、すぐに悲しそうな表情で顔を伏せる。


「あんた……最低よ!」


 一部始終を見ていた明井 奈々がズカズカと俺に歩み寄って来る。


「タヤはあんたを心配したのに、そんな言い方は無いでしょ!」


 こういう感情的な人間は手玉に取り易くて助かる。このまま俺を罵倒してもらって、適当に反論してやれば、亀水 咫夜の願いは成就するだろう。


「ただでさえあんたみたいな奴は嫌いなのに―――」


 突然の衝撃。そして激痛。

 明井 奈々の横合いから飛んできた拳が、俺の左頬を強く殴り飛ばした。

 勢いを殺せず教室の壁にぶつかった俺は、ずり落ちるように腰を下ろす。


「長生……」

「ナイト!?」

「ナイト君……。流石に殴るのは……」


 俺では無く、長生 内斗の立場を心配する明井と酒井を無視し、長生 内斗は静かな怒りをその身に宿しながら言葉を紡ぐ。


「君は……どうしてこんなやり方しか出来ないんだ……」

「……これが一番、手っ取り早い」

「それでも間違ってる。君はこんな人間じゃないだろ? 何故———」

「いいや、俺は自己中心的で効率重視な人間だ。お前とは違う」

「君に……僕の何が分かる」

「お前に俺の何が分かる」


 周囲の視線が集まる静寂の中、俺はいつもの冷静さを取り戻していた。

 何も間違っちゃいない。俺は群れの中に居てはいけない存在なのだ。だからこの選択は間違ってなんかない。


「長生 内斗……。己を理解できるのは己だけだと言ったな?」

「ああ」

「だったら俺に夢を見るのは止めろ」



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