第17話 正体は見えていた

「拓」


 唐突に俺の名前を呼んで、修平が目を開けた。


 天井に向けた視線には、修平の魂が戻っていた。修平は自分自身の存在を確かめようとするように、何度か瞬きを繰り返した。安斉さんがほっと身体の力を抜いて、修平から離れた。外したボタンを掛け、谷間を隠す。


「あ、ライズマートのおばちゃんじゃん」

 身体を起こした修平がぽかんと口を開ける。安斉さんの右肩が一瞬かくんと落ち、その後修平を鬼の形相で振り返った。


「恩を売るつもりはないけど、一応命の恩人なんで。……ひいお婆ちゃんに感謝しなさい。お墓参りには、ちゃんと行きなさいよ」


「……は、はい」

 おどろおどろしい声に気圧されながら、小さく頷く。安斉さんは肩を竦め、まな板を持ち上げてシンクに向かった。塩を水に流してまな板やグラスを洗い、しわくちゃの布巾に一瞬顔をしかめてからそれで拭き、元あった場所にしまう。それを、俺も修平も脱力して眺めていた。


 一仕事終えた安斉さんが戻ってきて、再び床に座った。俺は何故か正座をし、修平はベッドの端に膝を揃えて座った。


「君に取り憑いていたのは、マラソンの途中で車にはねられて死んじゃった地縛霊。……元々はね」

 世間話をするトーンで、唐突に安斉さんが話を始めた。


「彼は自分が死んだことに気付けなかった。そして、とても寂しがり屋だった。だから、すれ違うものとどんどん繋がり、取り込んでしまった。最初は多分、当て所なく彷徨っていた寂しがり屋の浮遊霊。その後もなんやかんやといろんなものを巻き込んで、こんがらがって今は何者か分からなくなってる。いろんなものを取り込んだお陰で、生きている人の魂を引きずり込めるくらい、強くなった。君は彼と波長が合ったんだね。もう少しで彼の一部にされるとこだった。魂を乗っ取る儀式的なものが、『名前を呼ぶ』という行為なんだよ。名前はね、その人の存在を示すものだから。ひいお婆ちゃんが頑張って、名前を教えないように邪魔してくれていたんだよ」

「ひいお婆ちゃんが……」

 

 修平は視線を彷徨わせた。その顔から段々と血の気が引いていく。

「俺が夢だと思ってたことは皆、現実に起こったこと……?」

「そう。君はもう少しで手を繋いで走っていたお友達に取り込まれるところだった。ひいお婆ちゃんだけじゃ太刀打ちできなかったから、私が力を貸したの。ひいお婆ちゃんが途中からキュートな美女に変身したでしょ? あれ、若い頃の私の姿」


 安斉さんが首を縦に大きく振り、フンと胸を張った。修平の視線が一瞬その胸に吸い寄せられ、「ああ、成る程」と口を動かした。言いたいことは分かる。あそこにいた安斉さんとはふかふかさ加減が違う。どんなに持ち上げても年には勝てないんだな。

「あんた、何か言った?」

 途端にギラッと睨まれた。やべぇ。怖え。

「ま、今回は拓が活躍したからね、許してやる」


 ぷい、とそっぽを向く。俺はその安斉さんに首を捻った。

「俺、何にもしてないんですけど。修平がビラビラ気持ち悪いの巻き付けた骸骨と走ってたから、手を伸ばしただけで……」

「あんた、あれ、見えたの?」

「え、まぁ……」


 安斉さんが目をまん丸にして俺を見る。何が何だか分からなくて、首を捻りっぱなしだ。しかし、あの骸骨は気持ち悪かった。ビラビラした真っ黒い人間だか海苔だか分かんないようなやつ一杯ぶら下げて。と、そこまで考えて、浮んだ思考に身体が震えだした。


「も、もしかしたら修平、あのビラビラになってたかも……?」

「そうよ」

 何を当たり前なと言いたげに安斉さんが頷く。それから目を眇め、俺を見た。


「拓は見えない人じゃないんだ。目を瞑っていられる人なんだ。良かったね、あの夜見えないままでいて。見えてたら、多分事故って死んでたよ」

「え……?」


 安斉さんは拳を握り、戸惑う俺の脳天に振り下ろした。ガン、と頭蓋骨が震えた。星って本当に飛ぶんだと、頭を抑えて唸りながら思う。


「夜中にふらふら出かけるのはやめなさい。特に、夜中の一時から三時。赤い月が出ている日は絶対にやばいから。真夜中に月が赤く見えることは普通は滅多にない。赤く見えるのはお化けの世界と繋がっている時よ。何度もニアミスしてたら、霊感に目覚めちゃうよ。早寝早起き。それが一番」


 霊感になんか目覚めたくない。俺は涙目で頷いた。しかし、何で俺が殴られなきゃなんねーの。こうやって、誰かの世話を焼いて結局損するって構図、俺の人生にはつきものだよな。


「拓ぅ」

 修平が、まだジンジンする頭に手を置いた。


「ありがとうな」


 修平の顔が涙でくしゃくしゃになっていた。その顔を見たら、理不尽に殴られた痛みなんて、どうでも良いような気がした。

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