第9話 領主と鈴蘭

リュミール王国 アンジェ迷宮伯領 ルサイユ村―――



領主の館のあるこの村は、同領の他の村より整備のなされた場所である。

王都は勿論、伯爵領とすら比較するにはあまりに烏滸がましい程ではある。

しかし領民の家だけでなく、酒場や宿、また小さくはあるが劇場も備えている。

娯楽に乏しい開拓村などからすれば垂涎の的だろう。



「あ~~……どうすればいいんだよぉ~~……」


その領主の館……迷宮伯の居住する館の書斎で、若い男が呻いていた。

まだ20に届かない彼は、目の前に堆く積まれた繊維紙パピルスを恨めしそうに睨む。

しかし、そうしていても仕事が減るわけではない。

仕方がなく一枚手に取り内容を検めるが、数行読んだだけで顔を顰めた。



「どれもこれも……父上がいきなり死んじまったのが悪いんだ……」


若い男……フルック・アンジェ卿は前領主であるアンジェ男爵の嫡子であり、現迷宮伯である。

彼も領主の息子として教育は受けてきていたのだが、前領主は彼の教育にさほど力を入れておらず、安く召し上げた家庭教師に任せきりであり、彼自身も成績は良くなく、勤勉さもなかった。


それでも、あと数年もすれば見られる程度には形にはなるか、と思われていたところで、前男爵の謀殺である。

能力も熱意も足りないまま、おまけに迷宮伯という新しい仕事ダンジョンの管理まで降って沸いたのだ。

完全にフルック迷宮伯の実力キャパシティを超えてしまっていた。



「ええ、フルックさま、あなた様は、何一つ悪いことなどありませんわ」

「ああ……ナンシー」


項垂れるフルック迷宮伯の肩に、優しく、そして柔らかい手が置かれる。

彼が振り返れば、蜂蜜色の美しい髪を持つ女性が嫋やかに微笑んでいた。

女性……ナンシーと呼ばれた彼女は、フルック迷宮伯の肩に軽く体重を預けるようにしてしな垂れる。薄く心を落ち着かせる花の香りが、彼の鼻腔をくすぐった。



「この花の匂い……まさか、俺が贈った花の?」

「はい。フルックさまがくださった、鈴蘭スズランの香水です。

 フルックさまの想いに、包まれたかったものですから……」

「ああ、ナンシー」


フルック迷宮伯がナンシーに抱き着く。

彼女は嫌がるそぶりもなく、両腕で優しくフルック迷宮伯を抱き返した。

書斎の隅に控えている若い家令が、その様子を見て少し苦い顔を見せるが、特段口をはさむことはない。


ナンシーは先に焼かれたであり、行商人に助けられ、このルサイユ村まで逃げ延びてきたらしい。そこで、新領主として村を視察していたフルック迷宮伯の目にとまり、召し上げられた。

器量が良く、教養はなかったが、すぐに貴族の令嬢と並べても遜色ないほどの所作を身に着けるほどの知性の高さ。

なによりフルック迷宮伯を立てる彼女の嫋やかさに、彼はすっかり夢中になっており、最近はことあるごとに彼女に甘えている。


家令としては、主人の所業や彼女のに対して叱責をしなければならないのだが……しかし人当たりが良い彼女の人柄に、家令である彼はもちろん、同性の侍女らですら好感を抱いているのだ。

これで彼女が領主の財産を食いつぶしたりするわかりやすい悪女であるならば別なのだが、そういうこともない。

であるならば、どうにも彼女を叱ることができず……主人についても、彼の勉強不足や、先代のやらかしが発端の、ある程度自業自得と言える状況であるとはいえ……彼の業務が大変なのは重々承知をしているため、黙認を続けていた。



「トルム村……兵を出されるのですね、復興したあの村を守るために」

「ああ、戦火に巻き込まれた君を守るため、安心してもらいたくて、ギリギリまで渋っていたんだけど……いい加減もう出さないといけない、すまない」

「いえいえ、私のために、ありがとうございます」


ナンシーは、赤い目を細め……実に、嬉しそうな笑顔を浮かべた。

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