「母上、少し出かけてきます」

「何を言っているのです。もうすぐ夕餉ゆうげが……」

 用事から帰ってきたばかりの春太郎は、思い立って家を出ようとしていた。

「暗くなるというのに何処どこへ……」

「栗摩沼です」

 瞬間、君江の顔が硬直した。

 栗摩沼に行った柚がそこで妖怪を見たと浦野家に伝えに来たのは、春太郎が帰宅する前のことである。しかし君江は、柚が来たことを春太郎に告げなかった。言えば、春太郎は柚に会いに行く。不快だった。

「やはり毎日でも様子を見ないとわからないこともありますから。すぐに帰ってきます」

 と、ここで春太郎は、君江の様子がおかしいことに気づいた。

「母上、どうなされたのです……?」

 君江はめずらしく大人しい。明らかに、いつもの君江とは違った。

「主、柚と玉緒の匂いがする」

 春太郎の耳元で、小さくささやく月尾の声が聞こえた。月尾は姿を現さずに、春太郎にだけ聞こえるくらいの小さな声だけで状況を伝えた。

「なるほど……柚が来たのですね」

 ぎくりと、君江は狼狽うろたえた。

「柚は何と言っていたのですか?」

「別に、大した用事じゃないわよ」

「母上!」

 ついに春太郎は怒鳴った。大きく肩を震わせた君江は、驚いた眼で春太郎を見ている。

 最近は反抗的になったと思っていた息子は、さすがに怒鳴ることはなかった。それどころか、春太郎は怒りをあらわにすることはしない性格だ。なのに今、烈火のごとく怒る春太郎がいる。

「柚はつまらない用事で人をわずらわせるようなことはしません!もし彼女に何かがあったら、どうするのです!」

 春太郎に用事があることを知っていた柚が来たということは、それなりに伝えたいことがあったということだ。柚はきっと、栗摩沼に行って、何かを見た。おそらく、妖怪を……柚が栗摩沼で待ち続けているとしたら……

 やはり毎日は様子を見に行こうという気持ちから沼に行くつもりであったが、悠長なことはしていられない。春太郎は驚き続ける君江を他所よそに、足早に沼へと向かった。


「あの……貴女は……」

 話を聞いてほしいと女に言われ、柚は沼の前まで連れてこられた。

濡女ぬれおんな

「妖怪なの……?」

 女、もとい濡女は首肯しゅこうした。濡女という妖怪を柚は知らないが、彼女の正体はやはりと緊張を高める。

 このままでは、君江に女中を辞めさせられるかもしれない。少しでも春太郎の役に立たなければと、濡女の言う通りに来てしまったが、妖怪を前に軽率な行為だったとも思い始める。

「話って……」

 だが今さら、逃げることはできない。柚自身も半ば恐怖で身体が動かなかった。

「貴女は人間なのに、妖怪と一緒にいたから珍しいなって、気になったの」

 見た目は美しい人間のなりをした濡女は、気安い口調で話し始めた。

「妖怪のこと、恐くないの?」

「……恐い妖怪と、恐くない妖怪がいる」

 正確に言えば、恐くない妖怪は一人としていない。玉緒と月尾だって、気を許す間柄になったから、生来の恐さを隠しているだけで、本当は怖ろしい妖怪なのだ。伊佐三も弥市も葉太だって、そうだ。でも、一緒にいて恐怖は感じないし、楽しいという思いが強いだけ。

 あるいは邪魅のように、怖ろしいだけの妖怪だっている。

 しかし柚にはつぶさに思っていることを打ち明ける気力はなかった。

「ふーん……貴女のような人間は特別だけど、他の大多数の人間は、私たちのことを忘れている。そのうち、妖怪なんていないっていう世界になっちゃいそう」

 どこかで聞いたことのあるような科白せりふだった。

 そうだ……邪魅も同じようなことを言っていた。忘れ去られたくないから、人間を恐怖に染めたい。まさか、濡女も同じことを考えているのだろうか……?

「だから、少し怖がらせた」

「小さい子やお婆さんの妖怪は、貴女の仲間なの?」

「ううん。全部、私」

 濡女は次々に、幼子や老婆の姿に化けてみせた。まさに妖怪変化。

「どう?すごいでしょ」

 褒めてほしい子どものように、無邪気な濡女は、美しい女人の姿に戻った。

 すごいとは思うが、まだ油断できない柚は、何も言えなかった。

「ところで、貴女たちの目的って何?」

「え……」

「どうして私のことを調べるの?」

「仕事だから……棗藩にいる妖怪のことを調査してるのよ」

「へぇ……じゃあ私のことを追い出したりはしないのね」

 以前、濡女に会ったときに、追い出すつもりなのかと彼女は泣いていた。もしかしたら、濡女はずっと心配していたのかもしれない。

「追い出すつもりはないけど、危害を加えるなら……」

 春太郎は、どうするのだろうか。まさか見過ごすわけにもいかず、それなりの対処を考えることは間違いない。

「でも私が何もしなかったら、すぐに私のことを忘れちゃうでしょ?」

「私は覚えている。旦那様も、きっと……」

 たった二人だけが覚えていたところで、濡女は満足しないだろう。でも、他に良い案が思い浮かばない。

「ふふっ、貴女は優しいのね」

 ただの優しさだけではない。濡女が忘れ去られると思うと……

「私のこと、可哀想だって思ってくれる?」

「うん」

 忘れ去られてしまうなんて、とてつもなくこくなことだ。だから、可哀想だと思ってしまった。

 瞬間、濡女が抱き付いた。力強い抱擁ほうようである。

 濡女は寂しかったのだ。忘れ去られてしまうことが怖くて、一人ぼっちが切なくて。せめて自分だけは、忘れてはいけない。

 と、柚が感傷にひたり油断すると、それを待っていたかのように、濡女は邪悪な笑みを浮かべた。

 抱きしめられたまま、目の前に浮かぶ顔は、およそ人とは思えない恐怖を体現している。

「ひぃ……!」

 短い悲鳴を上げる柚は、金縛りにあったように動かなかった。

「ねぇ、死んで」

 氷のように冷たい声のあと、柚の身体は思いっきり後ろに引っ張られる。

 濡女は正面で妖しく微笑んだままだ。柚を引っ張っているのは、いつの間にか身体に巻き付いていた何か……濡女の身体から伸びた大きい蛇のようなものが、柚を縛り付けていた。

 顔は人、身体は蛇。異形いぎょうの姿だ。

 足の先が、水に沈んだ。どうやら沼の上まで、引っ張られたようだ。

「離して……」

「死ぬときも、死んでからもずっと一緒にいてあげる。」

 濡女は自分を殺そうとしている。逃げようにも、身体はびくともしない。

「……」

「貴女と一緒なら、消えても構わない。私のことを可哀想だと思ってくれた貴女なら。だから貴女を殺して、骨にして、私が大事にする」

「な……」

 濡女の思考回路がわからず、なぜと問おうとした柚は、勢いよく沼に沈められる。

 息を吸い込む暇もなかった。流れ込む水が、身体に巻き付くものが、苦しい。

「柚!」

 遠くで、春太郎の声が聞こえた気がした。

 もうだめだとあきらめかけ、意識が遠のこうとしたとき、急に自分は助かるのだと安堵あんどする。ふところに持っていたものを思い出したからだ。

 そして柚の予想通り、身体は楽になる。濡女は離れたようだ。

 だが、地上にい上がる力は残されていない。そんな柚の手が、誰かによって引き上げられてゆく。

「……柚!柚!」

 意識は一瞬、どこかへと行っていた。気づいたときには外の空気を感じていて、誰かが呼ぶ声が聞こえる。

 うっすらながら、目を開けることができた。

「…………」

 初めて見る、心配そうな顔をした春太郎だった。

「あ……旦那様」

「今度はげっ、とは言わなかったな」

 柚の無事を確認できた安堵から、いつもの春太郎に戻っている。

「た、大変なんです……!濡女っていう妖怪が、いろいろな姿に化けて人を驚かせていたみたいで、しかも私まで襲ってきて……」

「濡女なら、あそこにいる」

 飛び起きてまくし立てた柚は、春太郎の視線の先を追う。そこには、今にも獣の姿をした月尾に首をまれそうな、濡れ女が横たわっている。濡女は蛇の姿ではなく、美しい女人の姿に戻っていた。

 柚と春太郎の前には、猫と狐――玉緒と弥市が守るように立っていた。

「主、こいつは殺してもいいよな?」

「ああ。人間に危害を加えるなら、仕方ない」

 月尾が噛み砕こうとする刹那せつな、濡女は必死に叫んだ。

「嫌!ただその子と一緒にいたかっただけなのに……!一人ぼっちだったから……」

 構わず月尾が噛もうとしたので、柚は止めた。

「待って!」

 柚は皆の視線をびながら言う。

「濡女の言っていることは、本当のことだと思う」

「本当でも、看過はできない」

 と春太郎に言われるも、柚は続けた。

「可哀想だと思ったのは嘘じゃない。でも、いくら寂しいからって殺そうとするのは、余計に寂しくなるだけだよ。それに、私を殺したら、もう一緒にお話しできなくなるじゃない」

 精一杯の気持ちをぶつけてみる。妖怪に、人間の情が伝わるかはわからないが、もしそれでも殺したいと濡女が願うなら、柚にも助けることはできない。

 全員が、固唾かたずんで濡女の言葉を待った。

「……それもそうね」

 あまりにもあっけらかんと納得した濡女に、皆が言葉を失った。柚との温度差もはなはだしい。

「言われてみればそうよ。人間っていつかは死ぬんだもの。わざわざ早く死なすこともないわ」

「……私のことは、もう殺さないってこと?」

「うん!」

「そんなこと言って、まただますのよ!柚、甘やかしちゃだめ!」

 玉緒が人の姿になって、抗弁した。

 弥市が呼んでいるというように仕向け、柚と玉緒を分断させたのは、紛れもなく濡女である。そういう狡猾こうかつな妖怪が納得したとは、玉緒ではなくても思えない。

「ではこうしよう。柚が生きている間、一度でも人を襲ったり危害を加えたら、即刻亡き者にする。言いつけを守れるなら、柚が友達になる」

(勝手に友達にさせられた……!)

 春太郎がきれいにまとめようとしているのを、声に出してつっこむことはできず、愛想笑いを浮かべる。

「わかった。じゃあ明日も会いに来てね」

「明日は……へくしっ!!」

 すでに夜風がしみる刻限、ずぶ濡れの柚の身体は冷え切っている。

「早く帰った方がよさそうですね」

「まったく!柚が風邪をひいたらあんたの所為せいよ!」

 弥市が優しくいった後に、憤慨したままの玉緒が強く言う。さすがに濡女は自分が悪いという自覚があるのか、少ししょんぼりしている。

 近いうちに会いに行くと、柚は濡女に約束して、濡女は納得した様子で姿を闇に溶かした。

 本当に風邪をひいてしまったのか、柚は力ない様子である。そこで背を差し出したのは、春太郎だった。普段なら絶対にできないが、弱っている柚は彼の背中にのしかかる道しかなかった。

「玉緒さん、今夜は柚さんもお疲れのようですし、私の家へどうぞ」

「えっ……!そんな……でも……へへへ」

「気持ち悪い笑いをするな。あんな妖怪に騙されやがって、恥を知れ」

「月尾の意地悪!」

「月尾さん、野暮はいけませんよ」

「へいへい、わかってるよ」

 月尾も闇の中に消えた。玉緒と弥市も、ほどなく姿を消す。

 一件落着はしたが、柚はやるせない気持ちでいっぱいだった。

 うかつに妖怪に近づき、危うく命を落としかけた。これではもう、浦野家の女中は続けられないだろうと、落ち込んでいるのである。

「俺が着いたときには間に合わなかったが、また兄上のお札が助けてくれたようだな」

 先ほどの騒ぎが嘘のように、辺りは静まり返っている。提灯ちょうちんがいらないほどの月光に照らされる中、春太郎は柚を背負い帰路に就く。

 沼に引きずられたとき、柚の拘束を解いたのはお札の力だった。かつて邪魅の攻撃から柚を守ったように、今度も清之進が作った札が守ってくれたのだと、春太郎は思ったが……

「守ってくださったのは、旦那様です」

 気休めだと、春太郎は黙る。

「この前、旦那様からいただいたお札しか、私は持っていません。沼に落ちたとき、このお札のことを思い出して、絶対助かるって確信したんです」

「俺の……」

 たしかに先日、春太郎は柚にせがまれて札を作っていた。清之進に作ってもらった方がよいと言ったのだが、柚の頑固さに負けていたのだ。

 邪魅のときには札が砕けてしまった。だが、今回は柚を守ることができた。濡女は邪魅とまではいかなくても、妖力の強い妖怪である。邪魅のときの札では、太刀打ちできなかっただろう。しかし、柚が無事だということは、昔よりもより効力のある札を作ることができるようになったのだ。

 春太郎の暗い影に、光が射した。

「おいとました後も、大事にしますね」

「ちょっと待て。暇を出すつもりなのか?」

「わかってますよ。こんな無様な私では、浦野家の女中は務まりません」

 春太郎にではなく、君江に去れと言われることは、柚の中で明白だった。

「安心しろ。母上が何と言おうと、辞めさせたりはしない。柚が嫌と言ってもだ」

「……本当ですか?」

「ああ」

「本当に……?」

「本当だ」

「……よかった…………」

 春太郎の首元に、心底安堵する柚の吐息を感じた。

「私もお滝さんみたいに、浦野家に尽くしますね」

「瀧のようでは困る。強制はしないが、よめ……」

 規則正しい寝息が聞こえた。また浦野家に仕えることができるという安心から、柚は即眠りについていたのである。

 春太郎は急いで家に向かった。


 翌日、柚は微熱を出した。しかも寝かされているのは、花乃屋ではなく浦野家である。栗摩沼からは花乃屋よりも浦野家の方が近いと判断して、春太郎が連れてきたのであった。

 柚はぼんやりする意識の中で、君江に追い出されると覚悟したのだが……

「病人は大人しくしていなさい。まったく、こんな季節に沼に落ちるなんて」

 刺々しい言葉だが、君江の声にはいつもの怒気がなかった。

 驚く柚に、あとでこそりと春太郎が教えてくれた。

「母上なりに、柚に申し訳ないと思っているらしい」

 柚が来たことを春太郎に黙っていた君江は、春太郎に怒鳴られて目を覚まし、不器用な優しさを振る舞うようになっていた。ただ柚からしてみれば急に態度が変わって、困惑すらしている。

 一日も寝ていればすっかり体調も良くなり、あと数日で清之進が赦免になるというとき、ようやく君江は観念した。

「貴方たちの好きにしなさい」

 清之進が家督を継ぎ、春太郎が仕事を続けるという形を、不承不承ふしょうぶしょう、君江は認めたのである。

 今まで反抗をしなかった息子に怒鳴られたことが、相当君江に衝撃を与えたようだ。

 そして清之進が戻ってくる前日に、君江は浦野家を去って行った。

「春太郎に免じて、貴女が女中を続けることは仕方なく認めます。ですけど、春太郎が嫁を迎えたら、即刻出て行ってもらいますからね」

 と、最後は怒気を露わにしていた君江であった。

 嵐が去り、ようやく肩の荷が下りた柚と春太郎である。

「旦那様のお嫁さんは、苦労しそうですね」

 君江のような母がいるのでは、嫁の苦労は計り知れない。果たして、春太郎は嫁を迎えることができるのだろうか……?

「…………」

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