返魂香ノ怪

 年が明けるまでは、緊張した日々が続いていた。

 またいつ、邪魅が襲ってくるかもしれない。伊佐三に大怪我を負わせ、加減がわからず柚を殺しかけた妖怪だ。そして邪魅は、月尾を狙っている。

 再び、邪魅が現れるのは間違いない。

 絶対に一人になるなという春太郎の忠告を守って、常に玉緒か月尾と行動を共にした。しかし一向に、邪魅が襲ってくる気配はなかった。気がつけば年が明けて、やぶ入りの日にはゆったりと実家で過ごしていた。雪も解けて、菜の花が咲いたと思えば、すでに桜の季節である。

 油断はしないように、けれど緊張感も薄まっていった。

(今日も菜の花のお浸しとたけのこの炊き込みご飯にしよ。弾正様からいっぱいもらちゃったもんね)

 相生村に住む弾正の屋敷周辺には、春になって菜の花が群生した。観賞するだけでも可愛らしい花だが、好きなだけ取ってよいと言われて、しばらくはお浸しの献立が続いている。

 古椿の霊は弾正に葉太と名付けられ、人間の生活を満喫しているようだ。二人で山に入って取ってきたという筍を、たくさんもらっている。煮物に炒め物、汁物と豊富な料理にできる筍だが、中でも主のお気に入りは、炊き込みご飯だ。普段と比べてお代わりをする回数も多いし、少し表情も和んでいる。今まで美味しいの一言も言われたことはなかったが、その主の様子からは、作り甲斐がいがあるというものだ。

 弾正たちからもらってばかりでは申し訳ないので、柚は浦野家の畑で作った青菜を分けていた。目下、丹精を込めて作っている野菜である。

 その日も柚は、畑をいじっていた。

 ちょうど、作業が終わりかけたところで、訪問者の声が聞こえた。

「おっかさんだ」

 母の声が聞こえて、急いで玄関先に回る。

 主が寛容で、藪入りの日ではなくても、気軽に母に会える環境にあった。といっても、毎日会いに行くほどさみしい気持ちはとうに失せているが、畑で育てた野菜を届けたり、お茶を切らしたらもらいに行ったりと、月に三回くらいは会っている。

 いつも柚から尋ねていたのを何の用であろうか。しかも、苦手な定次までいる。

「あんた、そんな泥だらけの顔で!他の人が来たら、どうするんだい」

「おっかさんだってわかったから、この顔で来たのよ」

 慣れた小言を受け流すと、小松もこれ以上、怒る気はないようであった。

「浦野様に話があって来たんだ。柚も一緒に聞いてほしいんだけど」

 いませんと嘘を言ってしまいそうになったのは、なにも定次に尋ねられたからだけではない。

 春太郎だけではなく、自分にも聞いてほしいこと。それでぴんときたのが、自分を辞めさせようとしているのではないかということだ。

 そもそも二人は、奉公に行くことに反対であった。二人を押し切って女中になってからは、辞めなさいとは言われなかったので、もう大丈夫だと思っていたが、今になって動き出したのかもしれないとあせる。

「何の話……?」

「悪い話じゃないよ」

 意外にも、小松は笑顔で答えた。意地悪で言っているというわけではなさそうである。

 柚は二人を、家の中に招き入れ春太郎と対面した。

 小松はお願いがあって来たと、口を開いた。

「一日だけ、柚にお休みをくれませんかね?」

「構わないが……」

 即答した春太郎も、当の柚も、どうしてという視線を小松に向ける。

「実はですね、うちの人が柚のお見合い話をもってきたんですよ」

「ええ……!!急にお見合いだなんて、困るわよ」

 声を大きくして言った柚に、小松はやんわりと制した。

「何言ってんだい。お前だってもう、子どもがいたっておかしくない年頃なんだから」

「年頃かどうかはともかく、急すぎるのよ」

「お見合いなんて急なのが当たり前じゃない。まったくもう、いつまで経っても落ち着きがないのねぇ」

「落ち着きないから、お見合いなんてできないわよ」

「あんたったら……」

「ちょっと、二人とも……」

 止まらない二人を制したのは、定次である。柚がはじめて浦野家に来た日も、このような光景があった。

「相手は?」

 場をとりなすように、春太郎が尋ねた。

「うちのお得意さんに楊枝ようじ屋を営んでいる方がおりましてね、ぜひうちの柚と次男をって言ってくださったんですよ。別に今回で決めてくれってわけじゃないんです。会ってみて、お互い気に入ったならという、気楽なお見合いでございます」

 どうしてこの人は、自分の嫌がることばかりするのだろうと、柚は愛想よく答えた定次をにらみたくなる。

「うちは一人娘ですから、いずれ婿を取ってくれなきゃ困りますし。行き遅れになったら、柚が可哀想ですから」

 つまり、柚が婿を取って女中を辞めてもいいかと、小松は暗に言っていた。

 そもそもこのお見合い話だって、柚を家に戻したいがための策略であることを、柚は見抜いている。

「私は、一向に構いませんが」

 春太郎は興味なさそうに、余所よそ行きの一人称で答えた。

 柚が声を荒げたのは、小松と定次が帰ってからのことである。

「何で反対してくれなかったんですか!私、お見合いなんて行きたくなかったのに……それに、もし私が辞めたら、他に女中なんて見つかりませんよ」

 浦野家にはお化けが出る。そんな噂が立って、誰も奉公人になろうとはしなかった。たまたま家にいたくなかった柚が女中になったものの、柚がいなければ、今だって女中が見つかっていたかわからない。

 再び隠棲いんせいしている滝を呼び戻すのは可哀想だし、柚がいなくなるのは、春太郎にとっても痛手のはずである。

「玉緒はもう悪戯いたずらをしない」

「他の妖怪が現れるかも……」

「……この家の事情に気を遣わせて、行き遅れになってしまったら困る」

 別に気を遣ってなんか……という言葉を、柚は飲み込んだ。

 お見合い話を喜んではいないが、心底嫌だというわけではない。乗り気ではないといった塩梅あんばいであった。

 上手いことお見合い話が進んでしまえば、浦野家にはいられなくなる。あれだけ怖い思いをしても、今の生活が終わるのが寂しかった。

(まだそうと決まったわけではない)

 会うだけ会ってみて、話は断ろうか。しかし相手に失礼な気もして、どうしようか迷った柚は、清之進に相談した。

「もしかしたらその人が、柚ちゃんにとって素敵な人かもしれない。断ってもいい話なら会ってみたら?」

 清之進には背中を押された形になった。

「そうですね……」

「柚ちゃんが嫌なら行かなくていいと思うけど……」

「嫌というか……上手くいかないかもしれないですけど、上手くいってしまったら、清之進様にも、旦那様にも会えなくなってしまうから、寂しくて……」

 春太郎には言えなかった本音を吐露とろした。

「柚ちゃん……」

 玉緒もお見合いには賛成のようだった。だけど玉緒は、柚が婿を取っても、今まで通りだと思っている。

 妖怪の彼女は、人間の世界のあれやこれやを理解していない。一緒にいたいから一緒にいる。単純だけど、それが彼女の世界だ。

 だからそんな玉緒に、もし婿を取ったらどうなるかとは言えなかった。

 出会ってから一年も経っていないが、普通なら経験できないことをたくさんして、忘れがたい存在である。

「お滝さんみたいに、おばあちゃんになってもずっといれたらなぁって、そんなことも思ったり……」

 何十年も経って、自分は変わってしまっても、玉緒も月尾も変わらない姿でいてくれる。ついそんな風景を想像してしまうこともあった。

「でも私一人っ子だから、いつかは家に帰らないとなんですよね」

「そんなことないさ。俺にみたいに家族に迷惑をかけたらだめだけど、かけないなら自由に生きていいんだ」

 かけられたのは、斬新な答えだった。それは、清之進の願いのようにも感じられる。

「まだ先のことは考えてませんけど、清之進様に話して気が楽になりました」

「よかった」

 柔らかい笑みを向ける清之進が、家族に反抗していた姿が想像できない。よほど継母という存在が許せなかったのだろう。

「春太郎は何て言ってるの?」

「特に何も……興味がない様子です。それに、春になってからぼけぼけしてるんですよ。柱にひたいをぶつけたり、適当に返事をしたり。いつもならそんなことはなかったんですけど、気が抜けちゃったんですかね」

 邪魅との一件も終わり、春の陽気も相まって気が緩んでいるのか。おかしな主の様子を伝えると、清之進は面白そうに笑った。


 それから数日後には、お見合いの段取りがついていた。

「では行って参ります」

「うむ」

 春太郎は不愛想に答えて、柚を見送った。

 こじんまりした料亭で顔合わせをするようだ。お見合いだからと小松にめかしこまれ、少し緊張した面持ちで柚は浦野家を後にした。

 月尾も玉緒も家に入るが、何だか物足りないような気分である。

 自分には関係ないというのに、そわそわしてしまう。

 落ち着くことができたのは、権助とおもんが尋ねてきてくれたからだった。

「柚おねえちゃん、お嫁に行っちゃうの?」

 遊びに来たおもんは、柚が不在であることに不満気で、お見合いをしていると言えば、今度は寂しそうな顔をした。

「お嫁に行くんじゃなくて、婿を取るんだ」

 権助は興味津々な様子である。

「で、相手は誰なんですか?」

「権助たちと同じ元ノ井町に住む楊枝屋の次男で、たしか名前は……」

「寅二」

 春太郎が言い切る前に、権助が言った。

「知っていたのか……」

 同じ町に住んでいる権助は、楊枝屋と聞いてすぐにわかったようだ。寅二はどんな男なのかと聞きたかったが、めずらしく権助が真面目な顔をしていて、聞くのを躊躇ためらってしまう。

「あいつは、やめておいたほうがいいですぜ」

 冗談で言っている様子ではなかった。

 権助はおもんに猫と遊んでおいでと言って、その場から離れさせる。

「俺も人のことは言えませんけど、あいつと一緒になっても苦労するだけだ。あいつはこれが大好きなんですよ」

 壺振りの真似をしてみせる権助に、春太郎は察した。

「うちの近所に住んでいて、小さい頃から見知った仲ですが、今じゃ付き合いもないし……こう見えて俺は博打ばくちには興味ないんで。俺も親に迷惑をかけてますけど、寅二の方がひどいのなんのって」

 度合いでいえば、寅二の方がしていることは悪いと言い張った。

 勝手に借金をして、親は尻ぬぐいで大変だ。でも寅二にも兄がいて、兄は真面目で商いにも熱心だから負い目もあると、これは同情的である。権助もまた、まともな兄と比べられているので、感じるところがあるらしい。

「柚の両親は、うまいこと寅二の両親に丸め込まれたんでしょうね。万が一、今日のお見合いで柚が寅二を気に入っちまったら、釘を刺しといた方がいいですぜ」

「…………」


 浦野家に権助たちが尋ねているちょうどその頃、柚はお見合いの最中であった。否、これはお見合いと呼べるのか怪しい。

 柚の隣には小松と定次がいて、向かい側には寅二の両親がいる。しかし、寅二の姿はなかった。

「…………」

 長い間、重い沈黙が流れている。誰しもが目の前の料理には手つかずであった。

 寅二の両親は約束の時刻には来たものの、はじめから寅二は来ていなかった。遅れてくると両親が言ったが、一向に来る気配すらない。

 お見合いとあっては、寅二がいなくては話が進まないので、仕方なく待ちに待っていたが……

「ここに来る途中で、何かあったんじゃ……」

 と定次が心配して、両親が様子を見に行こうと立ち上がると、なんと寅二の兄が尋ねてきた。

「寅二のやつ、お見合いをほっぽって出かけちまったようで……」

 兄の報告にしびれを切らしたのは、小松であった。

「失礼にも程があるってもんですよ!この話はなかったことにしてくださいね!」

 すたすたと柚と定次を連れて、店を後にした。

 店を出ても、小松は悪態をついていた。だが柚は、怒りよりもみじめさの方が大きい。

 玉緒たちに相談して、将来を考えたり不安になったり、今日だって緊張して、柚は真剣であった。なのに、すっぽかされたとあっては、あまりにも惨めすぎる。

「柚、ごめんな……」

 お見合い話を持ってきた定次は、自分が悪いと言わんばかりに謝った。

「……いつも余計なことばっかりするんだから」

「柚!」

 つい本音を出してしまって、小松に軽くたしなめられる。

 いつもは思っても、口には出さなかった。だけど、柚は言ってしまったことを後悔していない。

 惨めな気持ちを、嫌いな定次に当たっているのだ。

「もう帰る」

 小松も定次も、柚の惨めな気持ちを理解して、それ以上は何も言わなかったし、無理に引き止めようとはしなかった。

 柚はそのまま浦野家に戻る気持ちにはなれず、人気のない空き地にしゃがみ込む。

(夕方までに戻ればいいよね……)

 まさかすっぽかされるとは思わなかった。寅二はお見合いが嫌だったのだろうか。理由なんてどうでもよいが、小松の言う通り失礼な奴だ。

(いいじゃない。今のまま女中ができるんだから……)

 自分で自分を励ましてみる。しかし、惨めな気持ちは去ってくれない。

 純真な気持ちが、傷ついた。

「……柚」

 呼ばれて顔を上げる。自身を呼んだのは、主だった。

「な、なんでここにいるんですが!」

 柚は立ち上がって、怒鳴った。春太郎は柚の様子に驚いて、歯切れの悪い返事をする。

「ここは近道だから………その、権助から聞いて、心配になって来てみたんだが……」

 春太郎の言葉は頭の中に入らない。

 一人でいたかったのに、どうしているのという怒りが、柚を占めている。この怒りは、定次に当たったときと同じものだ。

「何か、あったのか?」

「相手にすっぽかされたんです。ずっと待ってたのに、いつまで経っても来なくて。来たくないなら来たくないって、はじめから言ってくれればいいのに」

 そんなこと、春太郎に言っても意味がない。

 本当は春太郎に当たりたくなんかなかった。だけど、自分の気持ちを制御できない。さすがに春太郎も怒るだろうか。女中が主に当たるなど、無礼討ちにされてもおかしくはなかった。

「……俺も」

 怒るわけでも、興味がなさそうな素振りではなく、いつもよりも弱々しい口調であった。

「何度かお見合いをしたことがあるが、全部相手から断られた」

 急に何を話し出すのか、柚はきょとんとして主を見る。

「幽霊だの妖怪だの気味が悪いと散々だったが、俺は人に好かれる性格ではない。なぐさめてやりたくても、慰める方法すらわからないな……」

 独り言のように呟いて、しおらしくなる。

 違う。いつもの春太郎ではない。

 邪魅が彼に化けたとき、主ではない素振りから化けていることを見破った柚だが、今回は本物の主がいつもの様子ではないのだ。

「旦那様、どうしたんですか……?悪いものでも食べちゃったんですか?」

 春太郎が自分を慰めようとしてくれている。信じられない光景に、逆に柚の方が心配になった。

「……少しは落ち着いたか?」

「え、あ、はい。……ごめんなさい、当たってしまって」

「普段の柚に戻ったのなら、それでいい」

 そう言う春太郎も、元に戻ったようだ。

 自分の失敗談を話して慰めてくれた春太郎のおかげで、上手く力が抜けた。

 気づけば空は茜色に染まっていて、すぐに戻って夕餉ゆうげの支度をすると言う柚に、今日は外で食べるのも悪くないと春太郎が連れて行ったのは、うなぎ屋であった。

 炭火で焼いた匂いが、暖簾のれんの外までただよっている。

「気まぐれに、好きなだけおごってやる」

「ほんとですか!何も食べてないから、すっごくお腹空いてるんです」

 お見合いの席では、一口も料理を食べられなかった。気分も上昇した柚は、早く鰻が食べたくて仕方ない。

 つやつやした米の上には重をはみ出すほどの鰻が乗っている。どうやら春太郎は、上等な鰻を頼んでくれたようだ。

 鰻の身は優しくほぐれて、たれの甘味と炭火の香ばしさが、口の中に広がる。鰻だけではなく、米の甘味も最高に相性がよかった。

 箸を動かす手は止まらない。

(なんやかんや、主も優しいのね)

 人使いが荒くて、怪異が大好きな主。でも、それだけではなかったようだ。

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