リアルな痛み、逃げ出せない夜。

 なぜ暗殺者アサシンが?誰の依頼で?先生は勝てるのか?僕は何をすれば?

 頭の中で色々な考えが渦を巻く。

 息が荒くなる。


 いや、いや。


 さっき言われたばかりじゃないか、「もう少し落ち着きたまえ」って。

 そうだ、まずは深呼吸、そして状況の整理。

 僕は深く息を吸って、吐く。



 先生と暗殺者は向かい合って動かない。

 いや、お互いに動けないというのが正しいのか。

 先生の持つ鉄の棒は、暗殺者の持つナイフより格段にリーチが長い。

 棒の長さは、先生の身長と同じ175~180センチくらいだろう。

 簡単に近づかせない分、重いはず。

 一突きでも動きを間違えれば、途端に不利になることは明白だ。


 一方、暗殺者が持つナイフは軽いが、短い。

 投擲用メスを持っていたが、むやみに投げてこない所を見ると、持っていた本数はそこまで多くないのかもしれない。

 しかし先生は、メスを投げるその瞬間を狙っているように見える。

 先に動こうとした相手の『心の動き』を見て打つ心構え。

 剣道の「先の先せん せん」というのだったか。

 どこかで聞いたことがある。


 そして……暗殺者も同じように心の動きを見て、待っているようだった。


 お互いに後手を狙い、時間だけが流れている。

 両者とも、精神をすり減らしつつも集中し、耐えきれなくなるのを待つ気なのだろう。



 ってことは、今自由に動けるのは……僕だけだ。

 だけど、僕に何ができる?今まだ筋肉痛にさいなまれている僕に?


 冷静に冷静に考えろ。

 戦いの基本は『相手がされたら嫌なことをする』だ。

 脳を煮やしながらやってきた、オンライン対戦ゲームの経験がこんな形で活きるなんて。


 そういえばさっき、明確に僕の行動を制限しようとする、暗殺者の動きがあった。

 ドアに向かおうとして、ナイフを投げられた時だ。


 僕に逃げられたら困るということか?

 ここから逃げても逃げ先なんて無い僕に?


 いや、違う。逃げたあと、僕が……


 ハッと気づいて、僕はもう一度ドアに向かう。

 眼を狙われないように片方の腕で顔を隠しながら。



 暗殺者は少し後ろに飛びのいて、先生との距離をいったん離しつつ、メスをこちらに向かって投げる。

 僕の、ドアノブを握る手か、それとも走り出す脚か。


 どっちだって構わない。


 役にも立てずに突っ立て震えるだけでいるよりは、ずっとマシだ!


 手に数本のメスが刺さる!

「ぐっ!」

 痛くて手を退けそうになったが、我慢した、できた。

 覚悟はしていたから。


 ドアを開け、背面からメスで肺を狙われないように、背中を強く丸めながら逃げ出す。


「マジロ君!」

「わかってます!呼びます!」


 先生が、こちらに顔を向けずに発した声にすぐに返事をする。



 そうだ、今この状況で暗殺者にとって困る事は『増援を呼ばれる事』。

 一対一でも膠着こうちゃく状態ならば、増援が来ると知れば動かざるを得ないはず。

 僕自身が頼りにならないのは悔しいが、今は自分のできるだけをしなくては。



 それにしても、痛い。

 痛い痛い痛い。

 痛い!


 注射や擦り傷ひとつでも嫌な顔をしてしまう僕の手に、数本のメスが深々と刺さっている。

 その血と痛みは、僕にこの世界の現実を突きつけるようだった。


 人を食い殺しでもしそうな怪物がそのへんにいて。

 宝石泥棒が街中に出没して。

 暗殺者なんてものが本当に存在して。


 ここではあまりにも、様々なものが……『軽い』。


 恐怖からくる心臓の早鳴りが、マスターの寝室を叩く音と共鳴した気がした。

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