Ⅵ 後篇(上)


 テオ。

 師匠が叫んだ。俺の箒は舞い上がっていた。鬼灯のような揺りかごの上に。

 繭の中の円盤の上に現れたアルバトロスはシーナを背後から抱きすくめ、魔女の長い髪をめくり上げて、うなじに唇をつけていた。

「少し焦げているが、美味しそうな魔女だ」

 ハンスエリを抱えたシーナは振り返り、魔法杖をアルバトロスに向けた。シーナの魔法杖はアルバトロスの指先の動き一つで砕け散った。揺りかごの上方に出た俺は繭の蓋を目掛けて真上から魔法を投げ落とした。硝子の蓋にあたった魔力が虚しく跳ね返される。

「テオ」

 跳ね返ってきた魔法が俺を殺傷する前に、師匠の魔法が横合いから俺の魔法を弾き飛ばしていた。黒金くろがねの魔法使いの出現を見て繭の上に飛んだのは俺だけではなかった。師匠も俺に並んでいた。マキシムが俺を阻んだ。

「無駄だ、テオ」

「師匠。シーナが」

 片手が不自由な師匠を振りほどき、俺は狂ったように箒の上から硝子の蓋に魔法を落とした。

 シーナ。

 俺は叫んだ。

 シーナ、アルフォンシーナ。

「そこで指を咥えてみておけ、魔女の騎士」

 俺を見上げてアルバトロスは嗤った。シーナは箒を掴もうとしたが、アルバトロスはシーナの箒も投げ上げて粉々にしてしまった。そして黒金くろがねの魔法使いの視線は、俺の上から白銀しろがねの魔法使いに移った。

「マキシム」

 師匠は応えない。

「これはお前が育てた魔女だ。ザヴィエン家の花嫁に相応しいとは想わないか」

 嗤いながら黒金の魔法使いは続けて云った。

「マキシム。実に懐かしい名だ。青い湖に小舟を浮かべて幼いお前と遊んでいたグィネヴィア姫。あの女の心臓は温かく、握り潰すまでまだ脈打っていた」

 シーナ、シーナ。

 俺は魔法を繰り出し続けた。魔法がまったく効かない分厚い硝子の覆いに向けて、今度は箒ごと体当たりしてぶつかっていった。

 待っていてシーナ。そこから出してやるから。

「あの夜、お前の両親を殺したその脚であの女を迎えに行ったのだ」


 起きておられましたか、グィネヴィア姫。

 大変な変事がありました。領主夫妻が侵入してきた魔物に襲われたようです。城にいては危ない。さあこちらの外套を羽織って。夜明けが来るまで外に逃れましょう。

 どうなされた、姫。


 グィネヴィアこそ黒金の魔法使いが来るのを待っていた。

 月光に耀く湖の畔でグィネヴィア姫はアルバトロスの手から手を放した。黒金の魔法使いは振り返った。



「最期までグィネヴィア姫は拒み通した。わたしの花嫁になるはずだった許嫁」

 力は拮抗したが、時が経つにつれて形勢が傾き、魔女は次第に弱っていった。最期は黒金の魔法使いの力の方が上回った。

「グィネヴィアめ。このわたしに重傷を負わせたことについては褒めてやるべきだろうな。今でもその古傷は完全には治らないのだから」

 忌々し気にアルバトロスは脇腹を抑えた。

「惜しいことをしたものだ。『偉大な魔女』であったとは。グィネヴィアからは確実に黒金の血を受け継ぐ者が生まれるはずだったものを。あの女の死にざまを教えてやろうマキシム。グィネヴィアはついに力敗けするとみるや、己の心臓を自らの手で胸から抉り出したのだ。魔女はわたしを睨んでいた。黒金には穢されぬと云い放ち、血を流してこと切れているのにまだ睨んでいた。よくぞあれほど嫌われたものだ」

 昏く沈んだ師匠の眼。マキシムは知っているのだ。朝焼けの湖に散らばっていた魔女であったものの残骸。

「寄せ集めて棺に納めるのも大変だったのではないか?」

 アルバトロスはせせら嗤った。

「心臓を喰った後は、怒りに任せて元のかたちが分からぬほどに細切れにしてやったからな」

 アルバトロスは振り向くと、アルフォンシーナの腕からハンスエリを取り上げた。箒と魔法杖を粉砕されてしまったシーナには為すすべもなかった。

「想定外といえば、今ひとたび似た女に逢った。冬の宮殿でのことだ。グィネヴィアほどではないがその女も存外に抗う力が強くて閉口した。薄まったとはいえ偉大な魔女の血がまだこの世に遺っているのならば、それさえ探し出せば黒金の血の継承は難しくはあるまい。

 さあ、今の話を聴いたからには愚かな姫と同じ過ちは犯すまいな、アルフォンシーナ」

 箒で硝子の上蓋にぶち当たるたびに肩まで痺れた。魔法を振り下ろしながら、何度も上空から滑降して硝子の蓋に衝撃を与えた。箒が曲がってきた。師匠がやめろと云ったが俺は止めなかった。

 何度も何度も上空から垂直に墜落して、放った魔法ごと繰り返し箒の先を硝子の殻にぶち当てた。そうやっているうちに、俺は気がついた。蓋が波打っている。ひびが生まれている。僅かだが、確実に。表面に細かいひびが生まれてきている。亀裂が塞がっていない。内側からは見えないだろうが、繭の蓋の表面は変化してきている。

 揺りかごの蓋が割れる。

 シーナは近づくアルバトロスから逃れようと、円盤の上を反対側に回っていた。

「ここに丁度よいものがある」

 アルバトロスは眠っているハンスエリを片腕で掲げた。

「グィネヴィア姫の時も幼いマキシムを使ってこうしてやるのだった。そうすればあの魔女も素直に言いなりになっただろうに」

 黒金の魔法使いはシーナに迫った。

「この赤子を救いたければ、どうすればよいのか分かるな、アルフォンシーナ」

「ハンスエリの命を使って脅しても、ハンスエリを必要としているのは他でもない、貴方ではないのアルバトロス」

 気丈に云い返したが、シーナは逃げ場を失っていた。

 殻が割れる。

 あと一回、箒を強くぶつけたらきっと。俺が来る前に師匠が同じように打撃を与えていたことで、蓋には弱っている箇所があるのだ。

 師匠も硝子の蓋の変化に気づいていた。

 極光の揺れている空まで俺は高く上昇した。今までで一番高い処まで昇り切った。雲の上で箒の向きを逆さまにする。柄の先端を真下に向け、狙いを定める。落ちてやる。そして箒ごとあの硝子を突き破ってやる。お前が黒金の魔法使いだろうが知るか。俺にも偉大な魔法使いに由来した名がついている。

「自己紹介がまだだったな、黒金の魔法使い」

 無茶な墜落を繰り返したことで箒はひん曲がり、腕は痺れて柄を握り締める掌には血が滲んでいた。

「俺の名はテオフラストゥス・フォン・ホーエンツォレアン」

 両膝で箒をしっかり挟み錐もみで下降する。俺の箒と魔法杖が松明のように加速度で燃え上がった。魔力が硝子の蓋に向かって漏斗状に下がっていく。

「ついでに俺はお前の大嫌いなマキシム・フォン・ザヴィエンの直弟子だ」

 箒がばきりと折れた。天井に亀裂が入る。

 マキシムがそこに魔法を集中照射した。破片が跳ねる。凍った池に穴が開くようにして蓋の一部が破損した。

「テオ」

「師匠」

 俺とマキシムは箒ごと、壊れた蓋の隙間から揺りかごの中に飛び込んだ。


 

 真っ逆さまに俺は落っこちた。マキシムの箒が方向を変える。

「アルバトロス」

 白銀の魔法使いは躊躇わなかった。衝撃で空気が揺らいだ。繭の中に落ちるなりマキシムは残った力を振り絞り、最大級の魔法をアルバトロスに向けて解き放ったのだ。それは激流となって繭の中を駈け巡った。渦を巻く魔法の威力でシーナが高々と吹き飛ばされる。そのシーナを箒で追いかけ、マキシムは空中でシーナを受け止めた。

「マキシム、まだハンスエリが」

 シーナが叫んだ。マキシムは、赤子ではなくアルフォンシーナを選んでいた。最初から師匠は決めていた。内部に入ることが出来たとしても二人に一人しか助けられない。ならばアルフォンシーナを助けようと。

「マキシム」

 死力を振り絞った白銀の魔法使いの魔法をまともに浴びたアルバトロスは片膝をついている。その隙にマキシムはアルフォンシーナを箒に乗せて飛び立った。

 どんな想いで師匠がそれを決断したのかは分からない。ハンスエリを黒金の許に遺すことで起こる先のことへの懸念も、遠い北の邑に棄てたアロイスのことも、その赤子の成長する様子を窓越しに見ていた医者の家も、親友ベルナルディのことも耀けるルクレツィアのことも、俺のことも、師匠の決断の前にはアルフォンシーナよりも優先されるべきことは何もなかったのだ。

 師匠はそう決めたのだ。棄子を拾った時からそう決めていたのだ。湖で死んだ魔女の代わりに命を賭してもこの魔女だけは護ろうと。ザヴィエン家に関わった魔女の多くは哀しみに沈む不幸な生涯を送る。だからこそ、そうはさせないと。



 これが君の新しい名だ。

 定められた結婚だったが領主に愛をもって迎えられ、倖せに生きた魔女がいる。城から見える青い湖をこよなく愛したそうだ。古城の廃墟に遺されたその名。

 霊廟に眠る古代の妃。

 アルフォンシーナ。



「マキシム、テオが。まだテオとハンスエリが」

 マキシムの箒の上でシーナが師匠を叩いていた。

「マキシム引き返して」

 シーナが俺を見ている。

 いいんだ、シーナ。

 俺と師匠は互いにそう決めたんだ。何も言葉を交わさなくても分かったんだ。俺は師匠にそうして欲しかったんだ。ずっと望んでいた。自分ではどうしようも出来ない宿命に翻弄されてきた男が、最期には自分の心で選び取れるように。

 シーナを乗せた師匠の箒が繭の中から出て行くのを俺は見送った。

 白銀の魔法使いの放った強烈な魔法によってアルバトロスは少なからず打撃を受けていた。俺はハンスエリを奪い返そうとした。黒金の魔法使いが立ち上がった。闘う暇もなかった。俺の身体が宙に浮く。

「そこで見ておけ、マキシム・フォン・ザヴィエン」

 氷原に黒金の魔法使いの咆哮が響いた。

「今からお前の弟子を引き裂いてやろう」

 アルバトロスは俺に向けて魔法杖を向けた。繭の外に逃れ出た師匠に向かって黒金の魔法使いは俺の悲鳴を聴かせるつもりなのだ。魔法杖が十字を切る。俺たちと同じ振り方。

「グィネヴィア姫はよく耐えたが、この者はどうかな」

 俺の口から血が噴きこぼれた。肋骨が折れていく。腕や脚が骨ごとねじれた。魔法杖を構えることも出来ない。敵わないとは分かっていたけど、こんなにも力の差があるのか。遠くでシーナが悲鳴を上げてる。テオ。

 白い羽根を広げて箒に乗った少年が高みを飛んでいる。夜なのに太陽が昇っている。あれは燃える日輪だ。

 極光を貫いて耀く白光から抜け出してきた少年。彼はまるで太陽そのものに見えた。

 続いて、鋼鉄の門からブラシウスが矢のように走りこんできた。そのすぐ後からシェラ・マドレ卿の空中馬車が続く。夜空に浮かぶ月のような回廊の扉は大きく開いて、全ての扉が開きっぱなしになっていた。

「テオ!」

 状況を見るなり、箒に乗ったブラシウスは揺りかごの周囲を旋回しながら何度か力任せに魔法を放った。魔法が全て燃え尽きて魔力が通じないと分かると、ブラシウスはすぐに高速で上空に移動した。俺は繭の中には入って来るなと唇の動きでブラシウスに伝えるだけで精一杯だった。

「遅くなってすまないテオ」

 血まみれになっている俺の惨状にブラシウスは慄いたが、大声を出して空から俺を励ました。

「アロイスが鋼鉄の扉を破ったぞ」

 回廊に踏み込むや否やアロイスはその魔法の力でここまで一気に鋼鉄の扉をぶち抜いていた。俺の見た白い太陽は、爆発した魔法の光だ。

「馬車の行き先を探すにあたり、まずは皇女宮に行って皇女エリーゼの力をお借りした。皇女は馬車の探索に近衛兵を動員して下さった。近衛隊は四方に扇状の編隊を繰り出して、シェラ・マドレ卿の馬車を見つけ出してくれた。ミュラー医師は皇女が宮で預かって下さっている」

 ヘルマン・ミュラー医師を安全な場所で降ろした後、シェラ・マドレ卿の馬車とブラシウスを連れて急行してきたアロイス少年は鋼鉄の回廊をひと目見るなり、一枚ずつ通過するような面倒はとらず、魔法で全門を突き破り、突き抜けてきたのだ。

「アロイス……」

 俺は呻いた。アロイス、ハンスエリを助けてくれ。

 近衛兵から借りて来たのか、アロイスは軍隊用の頑丈な箒に跨っていた。箒の先にきらりと光るのは、皇女近衛隊の徽章だ。

 黒金の魔法使いがブラシウスとアロイスに向けて繭の中から魔法を放った。放射状に強い光が伸びる。しかしそれは途中で遮断されて、ぷつりと消滅した。

 少年魔法使いは、夜空の高みから大きな螺旋を描いて下降してきた。アルバトロスの魔力を一瞬にして無効に変えた少年は、ブラシウスを繭の蓋の上から追い払って遠ざけた。アロイスは長い魔法杖をその手に持っていた。見覚えのある魔法杖だ。

 大人用の箒を難なく操り、破損した蓋の上に降りて来た少年魔法使い。攻撃をかき消されたアルバトロスは驚愕を隠さなかった。

 少年は長い魔法杖を身体の前にかかげた。

「魔都でぼくの前に現れて、これを使えと云ってこの魔法杖をくれた者は、師匠の師匠だと名乗っていた」

 メッサイア・サレレント・キュバリス。

「師匠の師匠とは誰のことだ。ぼくには興味がない」

 長い杖を片手に持ち、アロイスは繭の中にいるアルバトロスを上から眺めた。

黒金くろがね白銀しろがねの覇権争いにも興味がない。だがハンスエリは返してもらいたい。それは母ルクレツィアの子だ」

 少年は王のように顎をそらし、黒金の魔法使いを見下ろしていた。



》後篇(下)

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