Ⅲ 中篇(上)

 

 雨が降っている。夜だ。真冬なのか雨には冷たい霙が混じっている。闇に光りながら落ちていくものは、氷柱や氷片だ。高い塔から落ちる氷は硝子のように雨に濡れた路面に散った。

 頭巾を深くかぶった若い女がひとり、冬の雨に打たれてずぶ濡れになりながら、たった独りで立っている。その女の近くに暗黒を縫って飛んで来た箒が銀色の雨を弾いて降り立った。

 そこは魔都だ。天界に届かんばかりの水晶の塔でそうだと分かる。聳え立つたくさんの塔は水中花のように雨の中に滲んでみえた。

 俺たちには二人乗りについての礼儀作法を唱えたくせに、箒から降りたマキシムは強引に女を背後から抱き上げて箒に乗せていた。

 どうしたらいいの、マキシム。

 箒に横座りした女はマキシムにすがりついた。雨の中、マキシムも片腕で女を抱いた。

 マキシム。貴方と共に何処かへ消えてしまいたい。

 師匠は女に何か云った。箒が氷雨を跳ね上げる。霙が鏡のように散った。二人の姿は強くなった夜の雨に隠れてしまった。

「違うわ」

「シーナ」

「違うわ。見ようとして見たわけじゃない」

 慌ててシーナは水晶珠に布を被せ、畏れるように退いた。珍しく師匠が長椅子で寝ていたのだ。少し苦し気だった。水晶の魔術を覚えたてのシーナがその様子を見て、心配するあまりに、師匠の夢だか過去を水晶珠を使って覗いてしまった。

 雨の降る夜のことだった。

 遠い昔にそんなことがあったことを、箒の二人乗りの練習をするついでに俺は想い出していた。若い頃のマキシムが抱き上げていた若い魔女。その顔は隠れて見えなかったが、外套の長い裾から覗く靴先には紅玉の宝石が耀き、そして女の手には雨に濡れてかたちを変えた、花冠はなかんむりがあった。



 愛嬌抜群で、親切な魔女がたまにいる。そんな魔女のことを人間界では白魔女と呼んでいたりする。『いばら姫』『灰かぶり姫』に出てくる魔女もその白魔女だ。俺を見かける度に「いつも元気ね」と笑顔を向けてくるネロロのお母さんもそうだし、魔都で暮らす女の中にも数は少ないが白魔女はいる。

 ブラシウスの母、ツォレルン領主夫人も魔女には珍しくふんわりと微笑む、笑顔の人だった。

「養子縁組おめでとう。お祝い申し上げます。ジュヌビエーブと呼んで頂戴ね、テオ」

「ありがとうございます侯爵夫人。ジュヌビエーブさま」

 魔都の円形闘技場に俺は来ていた。箒試合の観戦に誘われたのだ。

 ジュヌビエーブさんは貴族の為の特別観覧席にいて、隣りの空いている席に俺を座らせた。

「気楽になさってね。ホーエンツォレアン子爵家と我が家は親戚なのよ。もう一つホーエンシュタウフェン家というのもあるのだけど、そちらとはあまりお付き合いがないの。子爵はお元気かしら。一緒に来ていらっしゃるの」

「兄は屋敷です。お蔭さまで」

「お菓子をどうぞ。ブラシウスもあなたとの縁が深まって喜んでいるわ。先週は人間の邑にご招待をありがとう。とても楽しかったそうよ。それはそうとテオ、姉弟子のお嬢さんはその後、怖ろしい出来事から快復なさったかしら」

「気にかけて下さってありがとうございます、ジュヌビエーブさま」

「大変でしたね」

「悪党は全員、監獄に収監されました。アルフォンシーナはすっかり大丈夫です。あの折はブラシウスの力を借りました」

 シーナを狙った毒入りの手紙。あの後、シーナを誘拐した悪党魔法使いたちを締め上げてみたが、彼らも匿名での依頼を受けており、依頼主のことは何も知らなかった。悪事を請け負う悪徳魔法使いたちは、何重にも込み入った方法で依頼主から指示を受けており、誰ひとりとして主犯を知らないという。いったい誰がシーナにあんな酷いことをしたのか、何も分からないのだ。

 毒入りの手紙を送りつけ、気狂い箒でシーナを空に放った以上、依頼主は本気でシーナを殺そうとしていた。

 泥棒猫。

 あんなに愛想がなくて男に素っ気ないシーナのことをそう呼んだのなら、俺はそいつを許さない。

「母上」

 そこへ、階段状の観覧席の向こうから人波をかき分けて魔法使いの青年が足早にやって来た。

「母上。見知らぬ者を近くにおいては」

「その態度は許しませんよ」

 息子に向かってむっと顔をしかめると、ジュヌビエーブさんは仕方なさそうな笑みを扇の蔭から俺に送ってきた。少女の頃の面影があってとても感じがよい。明るい眸にも瑞々しい感性がきらめいている。

「気にしないでねテオ。我が家の三男はうるさいの」

「母上」

「何でしょう。お母さまのやることに文句ばかりね」

「母上、降嫁なされたとはいえ、貴女は公爵家なのですよ」

「わたくしは田舎のお城の育ちだし、今は、侯爵家に嫁いでいます」

 へえ。こいつがツォレルン家三男のバルトロメウスなのか。バルトロメウスといえば、シーナの花婿候補だ。そしてジュヌビエーブさんの実家は、爵位の最上級の公爵家なのか。

「君」

 バルトロメウスはそこで初めて俺をまともに見た。バルトロメウスはブラシウスとは似ていなかったが、母ジュヌビエーブとは母子と分かる程度には少し似ていた。

「君、申し訳ないが遠慮してくれないか。そこはわたしの席だ。侯爵夫人には無闇に近づかないでくれたまえ」

「バルトロメウス」

 ジュヌビエーブさんは鋭く叱責した。

「無礼ですよ。あなたはお母さまに恥をかかせるつもりなの」

 俺は儀礼的な笑顔をつくった。こんないけすかない男を花婿候補に挙げていた理由がさっぱり不明だ。後でお兄ちゃんのベルナルディに訊いてみよう。

 挨拶する為に俺は一歩下がった。

「失礼いたしました。ご観覧の邪魔をいたしました。ジュヌビエーブさまご機嫌よう」

「いけません。テオ、行かなくてもいいのよ」

「母上、以前に田舎者の持ち込んだ流行性感冒に罹り大変なことになったではありませんか」

 俺に聴こえるようにそう云うと、バルトロメウスは身をかがめて母親のひざ掛けをかけ直した。そして鋭い目つきで周囲を見廻し、不逞分子でも潜んでいないかとジュヌビエーブさんの周囲を警戒していた。

 俺は少しバルトロメウスを見直した。この男には、師匠に似たところがある。内に熱いものを秘め、護るべき者の前では見境がないようなところが。

「ああ、それは悪かった」

 ブラシウスは一連のことを俺から聴くと、肩をすくめた。今から試合に出るブラシウスはとくに緊張した風もなく、円形闘技場に集まり始めた観客に混じってまだそのへんを歩いていた。

「母は一度、殺されかかっているんだ」

「なんだって」

「ちょっとした見解の違いだな。狙われたのは貴族議員の父なんだが、たまたまその日は父の馬車に母が乗っていたのだ。幼い頃のバルトロメウス兄上と一緒にね」

 領内で殺人があり、私刑の声が高まるなか、ツォレルン領主クラウディウスは裁判の必要性を譲らなかった。これに殺された被害者の遺族が激怒した。

 暴漢に襲われた空中馬車はまず御者が斃され、馬車は暴走して上昇を始めた。ジュヌビエーブさん母子を乗せた空中馬車めがけて、箒に乗った暴漢たちが群がった。

「領主がいないぞ」

 窓から中を覗いた暴漢たちはツォレルン領主が馬車に乗っていないことが分かると、代わりに幼いバルトロメウスを誘拐しようと試みた。誘拐するだけでなく、殺害しようという声まで上がった。

「一族の者が殺されたのだ。同じ想いを味わえば、領主も間違いに気づくだろう」

 窓を破って伸びてきた手がバルトロメウスの腕を掴んだ。

「その手をお放しなさい」

 子を護る母の本能でジュヌビエーブさんは激しく抵抗した。魔法杖を手にしたジュヌビエーブさんと同乗していた乳母はバルトロメウスを真ん中に押し隠し、馬車の左右の扉から内部に侵入しようとする悪漢を魔法で弾き飛ばしていったが、やがて乳母が斃された。

 ここで進退窮まったジュヌビエーブさんは想い切った行動を空中でとる。

「お母さま」

「大丈夫です。お母さまにしっかり掴まっていらっしゃい」

 夫人は幼い少年を胸に抱くと、乳母の遺体を跨ぎ越していよいよ入って来ようとした男とは反対側の馬車の扉に体当たりし、箒もなしに空中馬車から生身のまま跳び下りたのだ。

 後の『冠』ライダーの母であるジュヌビエーブはお腹にその頃、ブラシウスの弟となる末子の第五子を身籠っていた。身重のまま幼子を抱いて空中に落ちていきながら、女は自らの周囲に魔法をかけた。

 箒に乗った魔法使いたちは追い翔けたが、捕まえることが出来なかった。

 魔法をかけたジュヌビエーブの周囲は燃え上がっていた。高温の焔に包まれて火の玉のようになっている侯爵夫人に誰も手を触れられなかった。成層圏を突き抜ける隕石のように白光しながら、母子は焔の尾を引き地上に墜ちていった。

 下界はちょうど、『ティル・ナ・ノーグ(常若之國)』という、魔法使いの子どもたちの為の遊園地だった。遊園地には幼い子どもを連れた魔女や乳母や召使が沢山遊びに来ていた。

「子どもを抱いているわ!」

 何事かと空を見上げていた魔女が一斉に箒で飛び立った。彼らは遊具を縫って母子を迎えに行った。

 魔女たちが円陣を組んで魔法網をつくったその上に、ジュヌビエーブ侯爵夫人は速度と燃焼を吸収されながら、ゆるやかに落ちて行った。

「それで、母上と兄上は助かったんだ」

 女の人たちがやってのけるそういう話を聴くと、俺は背筋がぞっとしてしまう。男はいざとなったら簡単に戦闘本能の箍が外れて死ぬことも平気になるけれど、女の人はそういう機能もないのに想い付きで何かやるからな。本当に少し眼を離すと女は何を仕出かすか分からないよ。

 落ちた後はどうするつもりだったのかと病院に駈けつけたツォレルン領主に訊かれたお姫さま育ちのジュヌビエーブさんはふしぎそうに夫に応えた。あら、だって、魔法使いの版図ですもの、目立つ落ち方をすれば誰かが気が付いて助けてくれるはずだと信じて疑っておりませんでしたわ。



》幕間(skip可)

》中篇(下)

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