後篇(下)

 それは魔女に対する残酷な刑罰に使われる箒だった。気狂い箒。死罪を宣告された魔女は気狂い箒に乗せられて空高く放たれる。

 童話の中の踊りを止めることが出来ない靴のように、気狂い箒はその命を終えるまで半永久的に魔女を乗せて雲の上で跳びはねる。乗せられた魔女が自死しようとして手を放しても、気狂い箒はすぐに魔女を掬い上げ、何度も天に放り投げて翻弄する。魔女が死ぬまで。

 止まれ。

 気狂い箒に向かって魔法杖を振り下ろし、俺は何度も叫んだ。

 止まれ。

 狙いを定めることが出来なければ魔法も役に立たない。魔法杖から俺の放った魔法は夜の雲に吸い込まれ、振り仰いでも素早く動く気狂い箒は視線の先からまったく違うところを飛んでいた。

 大空の広範囲に魔法をかけるには俺の腕はまだ未熟だった。強い魔法使いが何人かいないと無理だった。箒に乗ることばかりに熱意を傾け、他の魔法の修練を怠り気味だった俺は、総合的な魔力としては年相応の魔法使いなのだ。

 せめて気狂い箒に並走できないかと試みたが狂った獣のようにめちゃくちゃな動きをしている気狂い箒には接近することすら出来なかった。魔女を処刑するための箒。狂った箒がその使命を終える頃には、乗せられた魔女はぼろ切れのようになっている。夜空を引っ掻く呪われた箒が雲の下から上に出てまた速度を上げた。そこに乗せられている魔女はシーナだった。

 怯え切ったアルフォンシーナの顔が月光に蒼褪めて浮かんだ。

「テオ……」

「シーナ、助けるから待ってて」

 狂った馬のように激しく跳びはねている箒にシーナはしがみ付いていたが、何度も身体が浮いて、腕一本で振り回されている時もあった。俺は気狂い箒に飛び乗ろうとしたがまるで近づけない。箒を同調させて附いていこうとしても動きが予測不能で全く無理だ。

「シーナ、マキシムが来るまでがんばれ」

 俺は励ますことしか出来ない。びゅんびゅん跳ねている気狂い箒は、シーナを乗せたまま近くに来たかと想うと遠くに飛び去り、上がったかと想えば急降下し、雲の中をじぐざぐに走ったり満月をなぞるように大きく宙返りした。シーナは両眼を固く閉じていて、もはや返事もしなかった。そのうち手が疲れるか、気を失って放り出されてしまうだろう。いっそ投げ出された方がいいのかも知れない。そうすれば落ちるところを掴まえることが出来る。しかしその時には狂った箒がすっ飛んできて俺の前に立ち塞がるだろう。

 機関車でシーナを連れ去った連中はシーナを気狂い箒に乗せて郊外の空に放ったのだ。

「シーナ」

 月に照らされた陸地はちょうど海との境に差し掛かっていた。黒い草原のような波が雲間に広がっている。俺は心を決めた。気狂い箒は魔女を放さない。シーナが箒から落ちたら俺はシーナの処に行き、落ちた魔女を追いかけてきた気狂い箒に俺が飛び移る。シーナは俺の箒が安全なところまで運んでくれるはずだ。一発で巧くいくとは想えないがそれしかない。

「聴いてくれ」

 箒が跳び撥ねる。聴こえているのかいないのかシーナからの反応はない。俺は諦めることなく呼びかけ続けた。俺の魔女。

「シーナ、聴いてくれ」

「テオ」

 はるか下方から箒で俺を追いかけてきたブラシウスが呼んでいた。俺のことが気になってブラシウスも馬車から降りて飛んできたのだ。

 ブラシウスも同じ考えだった。

「彼女をその箒から落とせテオ。俺が下で彼女を拾ってやる」

 ブラシウスは叫んだ。

「何処に落ちても俺なら間に合う。必ず拾う。やれ!」

「シーナ、手を放せ」

 俺は怒鳴った。

「箒を捨てろ」

 俺の声が届いたからなのか、失神したシーナが箒から振り落とされたのか。上下に跳ねる暴れ馬の鞍から遠くに投げ出されるようにしてシーナの身体が星空に浮いた。星の荒野に高々と投げ飛ばされたシーナは、壊れた人形のように四肢を投げ出して、月光の照り映える海に向かって放物線を描きながら流れ星のように落ちていった。

 俺は見ていない。

 気狂い箒が落下したシーナを追うために空中で軌道を定めたところを狙い、箒ごと気狂い箒に体当たりしたからだ。箒と箒が交差して絡まった。

「俺は箒乗りだ」

「つかまえたぞ、テオ」

 海風に乗って夜の海の彼方からブラシウスの声がした。陸に寄せる波と逆走して水面すれすれに暗黒の海を箒で疾走したブラシウスは、はるか遠くに飛ばされたシーナが海に墜落する直前に間一髪で着地点に滑り込み、竜巻を立ててシーナをその中に滑り落とすことに成功していた。

「つかまえた。彼女は無事だ」

 箒がぶつかった時に俺は片腕を伸ばして気狂い箒の柄を掴んでいた。俺は自分の箒を捨ててそいつの上に跳び移った。両膝で気狂い箒の柄を挟み込む。

「いまのを聴いたか」

 暴れまわる箒の上で、気狂い箒の雄たけびを聴いた気がした。がんがんに跳ねる箒にしがみつき天地が回るのを見ながら俺はにやりと笑った。

「『冠』とは違い俺はただの無冠の箒乗りだが、どんな箒でも乗りこなせなきゃライダーは名乗れないんだぜ」

 それからどれだけ時間が経ったのか、気が付けば星が減って空の色が薄くなり、海に曙の光が射してきた。この世の終わりかと想うほどの朝焼けだった。俺も箒もふらふらになりながら朝焼けの中を飛んでいた。次第に気狂い箒の速度と高度が落ちてきた。箒の下に陸地があった。朝風に目覚めたばかりの草花がそよぎ、夜明けの空を鳥が飛んでいる。

 岬の端の灯台を掠めて回り、野生の檸檬の樹に箒は引っかかった。俺を乗せたまま気狂い箒は草地に不時着して気絶するように転がった。仰向けに投げ出された俺は朝空を見上げた。気狂い箒を掴んだままだった。

 正直なところ、乗りこなせた気はまったくしない。



 海岸線からほど近い海を臨む病院に、海辺で静養する魔法使いのための離れの病棟があった。貴族特権を発揮したブラシウスのお蔭でアルフォンシーナはそこの貴賓室に収容された。

 空いている病室を借りて俺とブラシウスは正午まで眠った後、近所の邑の食堂で地方料理をたらふく喰い、午後になって患者との面会を許された。シーナの怪我は手首の捻挫と擦り傷と、誘拐される際に抵抗して出来た痣。医者が云うにはどれも軽傷だそうだ。

 シーナは目覚めていた。

「テオ」

「シーナ」

 天蓋つきの寝台を囲む薄布を開いて俺はブラシウスを紹介した。 

「空から海に落ちたシーナを掬い上げてくれたのは彼だよ」

「ブラシウス・フォン・ウント・ツー・ツォレルンです」

「アルフォンシーナです」

 両開きの窓から微風が吹き抜ける。寝台の背もたれに枕を立てて半身を起こしていたシーナは、まだ衝撃と疲労から立ち直っていない潤んだ眼をしてブラシウスに顔を向けた。

「危ないところを助けて下さってありがとうございました」

 うんまあ、という顔をしてブラシウスは俺の隣りによろけ気味に引き下がってきた。分かる。光の国のエルフみたいに綺麗だろ、俺の姉弟子。

 そこへ師匠がやって来た。入室してくるなり師匠は寝台に歩み寄ると無言でシーナをかき抱いた。俺はそこそこ見慣れているが、ブラシウスは衝撃を受けるよな。相手がたとえ俺でも師匠はああするよ。あれは俺たちが子どもの頃からの家族の仕草なんだ。

「よく無事でいてくれた」

「気狂い箒を炙らないでね、マキシム。可哀そうな子なの」

 俺とブラシウスは黙っていた。すでに気狂い箒は回収されていたからだ。おそらく予後不良で処分済。

 マキシムは箒こそ炙らなかった。その代わり別のものを炙っていた。炙るというより灰燼に帰していた。俺が上空で気狂い箒に引きずり廻されていた時に、遠い山並みの向こうにちらりと夜眼にも鮮やかな不気味な大火を見たのだが、あれがそれだ。

「アルフォンシーナ嬢を攫ったのはここにいる連中だ」

 シェラ・マドレ卿に導かれて悪漢の巣に辿り着いたマキシムはシーナがいるいないに関わらず、降り立った上階の屋根から地下室までを問答無用で一部屋一部屋、焼き払いながら突き進んだのだという。紅蓮の炎と黄金の火の粉が雨となって一帯に降り注ぐ。炎の旋風に髪をなびかせ、マキシムは火傷を負って外に出てきた悪人を次々と地面に引きずり倒しては胸を踏みつけて問いただした。

 アルフォンシーナは何処だ。

 師匠は過激派なんだ。シェラ・マドレ卿の責任ではないが、現場に居たのならせめて延焼くらいは止めてくれ。

 晴れ渡る海から吹きつけてくる風が心地よい。シーナと師匠を病室に残し、俺とブラシウスは病院前の海岸に出た。なだらかな砂浜が続き、朝顔に似た小さな花が群生して浜風に揺れている。手庇をつくって眩しい青空を振り仰げば、顔見知りの魔女数名が空を飛んで病院に向かってやって来るところだった。全員が箒の先に籠をぶら下げている。ティアティアーナ伯爵未亡人の侍女たちだ。シーナの入院を耳にしたティアティアーナ伯爵未亡人がさっそく見舞いと付添人を寄こしてくれたのだ。

 黙っていたブラシウスが不意に云い始めた。

「忙しくなる」

「どうした」俺は訊いた。

「片付けないとな。まずは掃除だ」

 そうだ、家のことを忘れていた。シーナが退院するまでに壊れた家を元どおりにきれいにしておかなければ。シェラ・マドレ卿が親切にも馬車を病院に置き残してくれたので、シーナはそれで帰宅できる。

 ブラシウスは考え込んでいた。

「仮宅だからそう大きくなくてもいいが、不便でも困る。場所も遠からず近からずの丁度良い屋敷がある。長いあいだ使っていないから手入れをしなければならないだろうが、新しい家財を運び込み、信用できる使用人をおいてそこに居てもらう」

 どうにも話がかみ合っていない。砂浜にきれいな貝を見つけた。邑の仲間の多くは海を知らない。土産に持って帰ってやろう。

「引っ越しでもするのか、ブラシウス」

「結婚するんだ」

 俺は拾い集めた貝を波打ち際で洗い、砂を落とした。大きめの貝殻は蝋燭立てにも使えそうだ。網の切れ端を見つけたのでそれに貝を入れて袋の代わりにした。ブラシウスは青い海に眼を向けていた。

「結婚おめでとう。誰と」

「俺とアルフォンシーナ嬢に決まっている」

 波音が響く。海鳥が鳴いている。聴き間違いだと想いたい。

 


[了]

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