第五話 待ち時間は大体缶コーヒー
店長が名前を呼んだ『秋生君』は、一瞬だけこっちを見て会釈なのかそれとも首を少しだけ動かしただけなのかは判断できなかったが、とにかく少し体を動かして、また車の奥に入って行ってしまった。店長は何度か彼に会ったことがあるらしく、そういう態度にも特にコメントも何もなかった。
「秋生君一人ってことはないと思うから、ちょっと事務所に行ってみようか」
「はあ」
俺はここのことを何も知らないから、黙ってついていくより他はない。ここの敷地はざっくり言うと、今敷地の一部、真ん中が空いていて、そこが駐車場っぽくなっている。当然、店長もそこに車を停めた。
左手から正面にかけて工場の範囲、さっき車があったところは左側だ。右手には工事現場とかにあるプレハブ小屋を気持ち大きくした建物がありそこにはエアコンの室外機が見えた。ここが店長の言う事務所なのだろう。プレハブの事務所に入ると、いくつか机が並んでいるが、中には誰もいなかった。
「今、親父と鈴木さん、ちょうど出かけているんですよ」
いつの間に後ろにいたのか、秋生君が立っていた。店長が振り向くと、彼は缶コーヒーを二つ持っていて、顎で入り口近くにある打ち合わせ用のテーブルを指し示す。
「これでも飲んで待っていてください……すぐに帰ってくると思いますので。銀行に行っているだけですので」
「ありがとう、ここで待たせてもらうよ」
秋生君は頷いて行ってしまった。缶コーヒーを飲みながら失礼にならない程度に事務所を眺める。……特に、なんということもない普通の事務所、俺が働いているガソリンスタンドの事務所とそんなに変わりはないように感じる。机や椅子、何台かのパソコンとプリンター。だけど、事務所には誰もいない。
「誰もいないみたいですけど、不用心じゃないんでしょうか?」
「そうだね、いつもなら誰かがいるんだけどね。秋生君が多分、作業するところから見ているんじゃないかな。ちょっと顔を動かせば駐車場は見えるし、ここに車以外でくる人もいないだろう」
缶コーヒーを飲みながら、そんなことを話していると、駐車場に車が入ってくる音がした。
「おお、エスイチサンマルだ」
よくわからんが多分車の名前だろう。それが以外ないと思う。車が止まると運転席と助手席が開いて、中から二人出てくる。
「青木さん、こんにちは」
店長が事務所から出て行き、運転席から出てきた人に挨拶をする。
「こんにちは」
俺もそれに続く。
「どうも。今日はどうしたの? あのマーチ?」
「そうなんですよ。お客さんの車で。修理をお願いしたくて」
「ふうん……」
そう言ってから、青木さんは俺たちが乗ってきたマーチの周りを歩き回った。ただ見ているだけのように感じたが、おそらく職人的な何か、があるのだろうという気がする。
助手席に乗っていた女の人は俺たちに挨拶して事務所に入っていく。鈴木さんとは彼女の名前だったのだ。
「分かりました、お預かりしますよ」
青木さんが言ったそれを聞いた店長の顔が明るくなった。
「よろしくお願いします」
「中で書類書いてもらえますか?」
店長は事務所に入っていく。俺は青木さんに声をかけることにした。
「〇〇で働いている黒田と言います。よろしくお願いします」
「ああ、よろしくお願いします。いつもお世話になっておりますよ……」
彼は俺よりも俺たちの乗ってきたマーチに夢中、という感じだった。それが今となってはちょっと珍しい車だからなのか、それともこの車をどう修理するのかを考えているのかなのかは判断できなかった。
あるいは、俺は単純に人を知らなさすぎるのかもしれない。少し立つと店長が事務所から出てきた。
「黒田くん、帰ろうか」
「はあ」
「それじゃ青木さん……よろしくお願いします」
ところでどうやって帰るのだろう。俺たちが乗ってきた車は置いて帰るんだけど。
「送って行きますよ」
と、さっき助手席から出てきた女の人が声をかけてくれた。ここからタクシーで帰ったら経費がえらいことになるだろうから、助かったと言うのが本当だ。というか、そんなこと店長なら気がついているはずだと思うのだが、いつもそうしてもらっているのだろうか。
彼女が車を出してきたのだが、それも派手な車だった。いや、見た目が派手なわけではないのだが、というか、見た目は地味なのだが、奇妙に存在感のある車、とでも言うか。ホンダのマークがついていたが、ちょっと見たことのないような車だった。
「実はこの車で送ってもらうためにここに来ているみたいなものなんだよ。良い車だ、タイプアール」
「そうですか」
完全にあしらわれているような気がしたが、店長はそんなこと微塵も気にしていないようだった。俺は後ろの席に座ることにする。2ドア……いや、こういうのはたしか3ドアだったな。それにしてはかなり広いリアシートだった。
帰りの車中、特に何を話したわけでもない。俺がその車の中で考えていたのは、彼女の左手がしょっちゅうマニュアルミッションのシフトに手をかけること、それだけだった。
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