街外れの板金屋
坂原 光
第一話 学校を卒業しても大人にはなれない
「ありがとうございましたァー!!」
俺が大きい声を出して、走り去っていくポルシェ911に向かってそう言う。ハイオクガソリンを満タンにしたポルシェ911。五月の太陽を浴びて、黒い塗装がやたらと光って見えた。今の俺では買える見込みも、買える希望も、いや、それどころが助手席にさえ乗る資格がない車だ。唯一、あるとしたら洗車時に動かすことくらいだが、ああいう客はここで洗車する、なんて選択はないだろうな。
多分、ポルシェのディーラーで手洗い洗車をしてもらうんだろう。うちのスタンドなら手洗い三千五百円からだが、なんと言ったってポルシェだ。最低価格が倍はするだろう。しかし、そこまで仕上がりに差が出るものか?
「ポルシェ911だ。不況だか株価が高いとか低いとか、よくわからんし、そういうことなんか言っても俺たちにはあんまり関係ないけどさ、金持っている奴はいつの時代にも、何処かにはいるもんなんだよな」
佐々木先輩が俺の視線の先を見て、そう話しかけてくる。彼は高校卒業して以来ここで働いているらしい。彼は今二十四、つまりもう六年ほどここで働いている計算になる。
「ここで働いている限り、ああいう車は買えそうにもないですね」
佐々木先輩がジロリと睨みをきかしてくるが、すぐにいたずらっぽく笑みを浮かべる。
「そりゃ嫌味か? 少なくとも、俺はないよな。正社員ったって、ガソリンスタンドじゃあ別に給料が高いわけじゃないからさ。でも黒田君は可能性はあるんじゃない? よく知らないけど、飛ぶ鳥落とす勢いのベンチャーにでも入ってさ。ああ言うところは給料高いって聞くし。本当かどうかは知らんけどさ。もっとも、今みたいにここでアルバイトしてて、それが長くなっちゃったらダメだろうけどさ」
黒田というのは俺の名前だ。まぁ、あえて説明するまでもないが。
「……そうですね。でも、いくら人手不足のベンチャー企業だって、向こうが選ぶ権利はありますからね」
話が難しい方向に流れそうになったその時、新しい車が入っていくる。今度はマツダの車だった。ガソリンスタンドっていうのは車が途切れることがほとんどない。営業時間はいつもひっきりなしと言っていいくらい、車が入れ替わり立ち替わり給油をしにくる。スタンド店員は暇そうに見えるかもしれないが(実際、俺だって働き始めるまでここまで動き回る仕事だとは思っていなかった)、その実、結構忙しいのだ。
セルフスタンドに慣れていない客、洗車だけしたい客、タイヤの空気圧チェック、タイヤ交換の勧め、スタッドレスタイヤの紹介、オイル交換の勧め、車検の勧め、ウインドウオッシャーの補充、バッテリーのチェック……。
「いらっしゃぁせー、こちらへどうぞぉー」
俺がこのガソリン・スタンドで働き始めたのは大学を卒業した今年の四月からだ。三月までは大学生だったのだが、卒業して四月からはフリーターとして働いている。働いていると言えるのか? 言えるだろう。給料だって出ている。アパートの家賃だって、ガソリン代だって払える。それの何が問題で、何が問題じゃないのだろうか?
人は言う。『どうして大学を出ているのに、就職しなかったのか?』と。そんなこと、俺が聞きたい。
人は言う。『なにかやりたいことはないのか?』と。ないよ。何もない。
人は言う。どうして?
人は言う。なんで?
人は言う。なにがしたい?
人は言う。どうなりたい?
人は言う……。きりがない。そして、そのどれにも多分、救いもない。
正直なところ、俺は就職活動になんてまったく興味がなかった。働きたいところなんてないし、行きたい会社なんてあるわけがない。そんな人間が面接に行ったところで間違いなく落とされるのが落ちだ。
いや、よく考えてみれば、真面目な振りをして面接に行って、人事の人間にこう質問してやればよかったのかもしれない。『あなたが本当にやりたいことはこれなんですか?』と。もっとも、そんな気力が俺にあるのかどうか。
とにかく、俺はどこにも職を得ないまま大学を卒業した。卒業式の日、ここにガソリンを入れに来たら、スーツを着ている俺に佐々木さんが声をかけてきた。ここには何度か給油しにきていたから、顔見知りに近い存在だった。
「いらっしゃい。珍しいねスーツなんて。就活?」
「いや、卒業式でした」
「卒業おめでとう。じゃあ四月から働くの?」
「何も決まってないんですよ」
「……何もって、何も?」
「ええ。純粋に無職です」
「じゃあ、うちでアルバイトしないか? 今人がいなくてさ。本当に、猫の手も借りたいっていうか」
「俺で大丈夫でしょうか?」
「大丈夫大丈夫、俺だって何にも知らないただの高卒だったし、そんな俺でもなんだかんだ言ってもう直ぐ五年だよ?」
根拠はよくわからなかったが、どうせアルバイトでも探そうと思っていたところだ。ちょうど良いのかもしれない。その日一度帰って、就活用に作成した履歴書を持って再度その店に行くと、直ぐに面接となり、言うまでもなく即採用となった。
翌日、俺はガソリンスタンドのアルバイト店員となった。朝、愛車である中古のスバル・プレオに乗ってスタンドまで行く。着替えて店を開く前のチェックをする。そして開店。あとはひたすら客を待つ。あるいは掃除。そんなこんなでもう一ヶ月になる。佐々木さんが予言したように、確かに俺でもなんとかなっている。
そんな五月下旬のある日、客がぶつけた車を持ってきた。どうやら家の車庫でぶつけてしまったらしい。そんなことは俺が働き始めて初めてのことだった。
「あの車、どうするんです? とりあえず預かったみたいですけど」
「ああ、修理するんだよ」
「え? うちでですか?」
「ううん、青木さんのところに持っていくんだ。多分店長が行くでしょう」
「青木さん?」
「そうか黒田君は知らなかったか。うちが懇意にしている板金屋だよ」
「板金屋」
俺がその街外れにある板金屋、アオキ板金のことを知ったのは、それが初めてだった。
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