海に沈む
まりもあ
第1話
「童貞がどうとか関係あります?それで芝居がうまくなるなら、もっとうまい役者がいてもおかしくないと思います」
よく通る声は居酒屋の空気を凍り付かせた。
あー、やっちゃう子だよね、まぶしいな。
当の本人は涼やかな顔をしてビールジョッキを両手で持っている。視線はおそらく唐揚げが置かれていたであろう、しなしなになったレタスの残骸らしきものに向けられている。
その手は小刻みにカタカタと、皿を見る目も揺れている。俺は「たまたま」彼の目の前に座っていたから目の奥が見えた。
一番奥の上座、ではなく中央のテーブルに座した演出家が「はー…」と息を漏らす。
「ヨリくんにはやっぱりまだわかんねえ世界だよな、やっぱりイロがあってこそなんだよ。な?」ぽん、と左隣に座る女性劇団員の肩を軽く叩いたあと、自分の元に軽く引き寄せた。
彼女は「そうですよね、私が教えてあげちゃおっかなー」とにっこり笑う。これが彼女の取った「選択」だろう。
「えー、俺もエリちゃんに教えてもらっちゃおうかな、って言ったらセクハラ?」と演出家は手垢のつきすぎた言葉で応酬している。
こんなうんざりするやり取りをどれくらいしてきただろう。俺は全てが面倒くさく「注文を取る下っ端の係」が楽だと気付いてからはずっと店員が駆け回る場所に陣取ることにしている。
飲み会なんて必要か?と思うが、参加しない心象に悪く、後で「飲み会に誘われなかった」とTwitterで呟く「監督」「演出家」「脚本家」なんかがいることも確かだ。
それでもここを離れず芝居を続けているのはなんでだろうな。
アルコールのまわった頭でぼんやりと考えていると視線を感じた。
ヨリが俺の目をじっと見ている。
冷やっとした。
あまりに真っ直ぐで悲しげな目をしていたから。
その目に射止められ、体が動かなかった。
「…アキさんは、アキさんは、本当の所どう思っているんですか」
奥底に情熱を宿した目をしたヨリに「おれは…」と言うと右横から助け舟が入った。
「ヨリさ、外行って頭冷やして来たら?アキも今回は後輩の面倒みてやるって感じで一緒にさ。今日はそのまま帰っちゃってもいいんじゃない?」
今日はエリちゃんが隣にいるから幡谷さんも上機嫌で済んでるし、とおれだけに聞こえるような声で付け加えた後、あとは俺に任せろーとにかっと笑った高橋の明るさに救われる。少し逡巡した後、手持ちの5000円をこそっと高橋に渡した。
「2人分で。もし足んなかったら、悪いけど立て替えといてもらってもいいかな」
「んー、まあ幡谷さんだし、余裕で足りるどころかお釣りくるでしょ。ま、あとで連絡するから」
「ありがとう。それじゃヨリ、ちょっと外行こっか」
ヨリはこわばった顔でのろのろと立ち上がった。
「お、しょんべんかー?」
幡谷の心なしか棘のある声が響く。
「あはは、すみません、一緒にちょっと酔い覚まししてきますね」
幡谷の問いかけに声のトーン作り笑いを浮かべる。
「あんま先輩に迷惑かけんなよー?」
元凶のくせにうるせえなと思いながら「失礼します」と言って、さ、とヨリを促した。
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