第十四話 凛冬殿へ潜入


「伯言様ー!ただいまもどりましたー!」

「あら花音、おかえり。ちょうどお昼休みの札を出したところよ」


 受付にいた伯言の手に、花音はまだ湯気の上がる籠を押しつける。


「な、なによ?!」

「さみしいかもしれませんが一人で召し上がっててくださいっ!」

「は?! なになにどういうことよ?! ちょっと花音!」


 伯言が背中で何か言っているが、花音はひたすら走る。

(申しわけございません伯言様! ふだんサボってる分がんばってくださいっ)


 もう午後は伯言に押しつける気まんまん自分に、花音はハタと気付く。


(蘇奈さんも、こんなふうに思われていたのかしら)


 そう考えると、蘇奈がサボり魔だったということと、殺されたことには何か関係があるのかもしれない。


 花音は清秋殿せいしゅうでんの囲いづたいに凛冬殿を目指す。こうすれば、迷子にならずにすむ。

 無人の清秋殿は、ひっそりと静かだ。


『花草子』の一件で秋妃しゅうひの座が空席になって以来、新しい貴妃は入ってきていない。

「そういえば英琳さん、元気にしているかしら」

 英琳は試挙組ならではの優秀さを買われ、尚宮局へ配されたと聞いていた。

(清秋殿といえば……忍びこんでいた紅とばったり出くわしたこともあったっけ)


 そんなことを懐かしく思い出しつつ小走りにいけば、凛冬殿はもうすぐそこだった。






 凛冬殿の敷地に入るとすぐ、怒鳴り声が聞こえたので、花音はとっさに芍薬の繁みに隠れた。

 葉のすきまからのぞいてみると――。


(あれ? 璃莉さんだわ)


 箒を握ったままうつむいているのは璃莉。

 璃莉の前に、年嵩の女官が居丈高に立っている。


(濃い紫の襦裙……璃莉さんの上司なのね)

 いくつもの編み込みがされた髪を紐でまとめた髪型は、まるで細い蛇を頭の上でまとめているかのようみ見える。


「まったく、いつまでたってもグズじゃの!」

 どうやら怒鳴っていたのはこの女官のようだ。

「すみません」

 璃莉は、細い肩をさらに小さくして頭を下げている。

「死んだ蘇奈と仲が良かったのだから、蘇奈の穴を埋め合わせするのは当然であろう!」

「はい、すぐに行って参ります」

「まったく、そなたは仕事にもっと身を入れよ。この後宮にいる女人はすべて、皇族にお仕えする身なれど、そなたのような小娘がどんなに身ぎれいにしたとて、皇子殿下のお目に留まることなどない」

「左様なつもりは」

「なんじゃそのかんざしは。下級女官の分際で色気を出そうなどと、恥を知れ」

「は、はい……」

「たいしたことのない容姿を磨くより、冬妃様の御ためにもっと励め」

「……かしこまりました」


 そのとき、殿舎の方から「欣明きんめい様、清寧せいねい様がおよびです」と女官がやってきて、その高位女官は行ってしまった。


(欣明っていうのね。なんて嫌な奴なの?!)

 花音はもう少しで茂みから飛び出すところだった。

(ていうか、なんであんな人が高位女官なの?! 人選おかしくない?!)


 悄然とうつむいて殿舎へ戻っていく璃莉を励ましてやりたいが、今はやるべきことがある。


(あの夜、蘇奈さんの遺体があった場所を確かめなくちゃ)

 蘇奈は本当に、あそこでサボってお菓子を食べていたのか?

 なぜ蘇奈の遺体のそばに、『宝玉真贋図譜』が落ちていたのか?

 なぜ蘇奈の髪は、下ろされていたのか? 

 争って簪が取れたり、結髪がほどけてしまった、というのではなく、きれいに櫛ですいたかのように下ろされていた。


 他殺にせよ、自殺にせよ、不可解なことが多い。

 内侍省がつぶさに調べた後だろうが、何か手がかりがあるかもしれない。


「で、えーと、ここ、どこだったかしら……」

 欣明に腹を立てた勢いでずんずん奥へ歩いてきてしまったが、例によって例のごとく花音は自分のいる場所がわからなくなっていた。

 あの夜のことを必死で思い出すが、あのときは夜で景色が今とはまるで違ったし、紅が手を引いていてくれた。


「ううっ、四季殿ってどうしてこうだだっ広くて似た風景が多いの?!」

 貴妃を楽しませるように作られた庭は、どこもかしこも同じような花の咲く低木が植えられ、池が作られ、その向こうに回廊が見え、同じような風景が延々と続いているように見える――花音にとっては。

 実際は回廊の柱に印があったり、低木の種類で見分けたり、見える屋根瓦の様子で場所が判別できるようになっているのだが、花音にはあいにく、方向と場所識別能力がいちじるしく欠けている。

 世間ではそれを方向音痴といい、花音は小さい頃から方向音痴と周囲に言われてきたのだが。


 自分の特異体質をいまだに信じたくない花音は、「だいじょうぶ!ここが凛冬殿なことは確かなんだから!」とまったく慰めにならない慰めで自分を元気づけ、さらに奥へ進む。


「えっと……たしか、すぐ近くに殿舎の回廊が見えていたわよね。すごく薄暗かったから、あまり人が来ない場所なのかしら。で、大きな木があって……ってさっきからずっとそういう場所を歩いている気がするけど?!」


 自分で自分にツッコんでいた花音は、ハタと立ち止まる。


 少し先に、低木が途切れた場所。

 そこに、赤い襷が渡されていて、「立ち入るべからず」とある。

「あれは内侍省がつけていった印ね! あたしってばえらい!」


 赤い襷の先に見える大きな木。確かに、蘇奈の遺体が寄りかかっていた木はあんな感じの木だった。


「なにをしている」


 後ろから突然言われて、花音は文字通り飛び上がった。

 しかも。

「お、おとこのひと……?」


 すらりと背の高い、青碧の袍。短く切りそろえられた艶やかな黒髪。

 線の細い女性的な美貌だが、間違いなく男性だろう。内侍省の宦官なら、緑色の濃淡の袍を着ているはずだ。



(え? でもここ後宮じゃん……? てことは……男の人いたらダメだよね?!)



「きゃああああ! 誰かー! ここに不審者がー!!」


 花音は状況も忘れて大声を出した。


「え? いや、あのちょっと……」

 目の前の美丈夫が花音に歩み寄ってこようとする。


「いやああ! 来ないで! 助けてぇええ!!」


「何事じゃ!」

 駆け付けた女官や衛兵は状況を見てきょとん、とした。


「そなたは確か、華月堂の司書女官殿では?」

「は、はいっ、華月堂の司書女官、白花音です!」

「それと……涼霞様? どうされましたか?」


 その名を聞いて、花音はぎょっと息を呑む。

(涼霞様って、もしかして姜涼霞きょうりょうか様のこと?!)


 長身の麗人が、困ったように微笑んだ。

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