森の野営地(1)
夜闇と霧に沈む森の中で、エッダは両の手のひらに湿った地面を掴んで、待っている。
木々が眠る夜、樹皮を覆う地衣、岩を這う苔――原初的な植物と土の匂いに気が鎭まり、感覚はより冴える。
深い森に、背後の遠くにあるヒトの
黒々とした茂りの奥、矢が直線を描いて飛べる限界の距離に、激しく動く影絵のような姿が迫ってくるのが見えた。
エッダは伏せた姿勢から
森を揺るがす轟音とともに衝撃は扇状にひろがり、土砂の津波になって獣の群れを襲う。
にわかにあらわれた月光が、小さな翼のようにひろがる
宙で態勢をととのえる小柄な体のはるか下で、渓谷ほどもある地の亀裂に木々や獣たちをのみこんだ土砂がなだれ落ちる。
うしろざまにストンと着地したエッダだが、足を踏みかえ、そのまま自ら穿った大穴に躍り込んだ。
崩れる岩と石を渡っては、落ちてくる枯れ木や若木を反動を殺しながらつかみとり、怒り狂い吠え立てつつ穴をまわりこもうとする黒い影めがけて投げつける。土砂に溺れそうになりながら食らいついてくる大型犬に打ち下ろす。
(こいつら、どれだけいるんだ)
なだれる坂を駆け上り、追いすがる野犬を蹴り落として、陸の岬のような急拵えの土手の向こうから大穴をまわってくる群れを見渡した。
遠い背後から大勢の声がかすかに届いていた。思ったより人がいそうだ。
(全部片付けないとまずいか)
エッダは地に立ち、野犬の群れに自分を取り巻かせた。
「エッダ! ケガはない?」
ミアはなだらかな丘の途中で待っていた。
「ないよ。あんたは足くじいた?」
「いいえ?」
「ならいい。いや、じゃあなんで上まで走らなかったんだ?」
暗褐色のおさげを揺らして肩をすくめるミアと並んで、丈高い柵に囲まれた野営地まで上がる。
「あなたって本当に勇者さまなのね。強すぎてびっくりしちゃった。
でも――」
やはり柵状の閉じた門扉のむこうに、松明を持った男や、篝火の下に集まって様子を窺う男たちが見えた。
ミアは森を振り返ってまじめな声音で言う。
「あれ、怒られないかしら」
「え?」
エッダもちらりと後ろを見やった。
丘の下一帯が、神が巨大な鍬で鋤いたように変貌している。
丘の上にあるのは主に採集者が使う野営地だと、ミアが言ったのを思い出した。
「……明るくなる前に逃げよう」
苦し紛れに言うと、ミアはきゃらきゃらと笑った。
門の前ではエッダは落ち着いて堂々とした態度で言った。
「全部やっつけた。追ってくるのはいない。入っていいか」
「全部? 君たちが?」
「やっつけた……? ああ、とにかく、入りなさい」
篝番らしい壮年の男たちは、信じられないものを見る目をしながらも門を開けようとする。荷馬車が2台すれ違えるほどの大きな門の、扉というより立てた大筏のようなそれを、
「いいです。おかまいなく」
エッダは片手で軽々と動かし、ミアが通れるだけの隙間をつくった。
「わあ。すごーい」と子どものようにはしゃぐミアを先に押し込んで、子どもほどの背丈のエッダも隙間をくぐりぬけ、門を閉める。
「おおお……、たしかに君が野犬どもを追い払ったんだな」
「なんてこった。君はまさか…――」
全部やっつけてきたのだが。まあいい、同じことだ。
追いかけてこれるケモノはいないことを証明して安心してもらうつもりだったのに、自分が怖がられてしまったらしい。
すぐ近くのテントの前に集まった男たちも、ポカンとしていたり、引きつった追従笑いのような表情を浮かべたりしている。
とにかく一息ついてくれと、
深い森に囲まれた中、暗闇の一角を切り取るように、石炉に火が燃えている。
中央の焚火炉を薪小屋、庇をかけた掘井戸、四つのテントが囲んでいて、テントと同じ数の篝火が灯されていた。
何か飲み食いするものをくれるというので、ふたりとも丸太の椅子に座って待つことになった。
「こんばんは」
テントから顔を出している夫婦連れらしい男女にミアが声をかけた。篝火の下に出ていた男たちは伐採人か採集者か、いずれも森で働く人だろうが、この夫婦は町の人なのだろう。「お疲れさま」「おやすみなさい」と愛想よく言って入り口の幕を下ろした。
ミアは愛想笑いを浮かべたまま、こっそりとエッダにたずねた。
「魔犬って、ほんとうにいた?」
「たぶんね」
エッダも声をひそめて返したが、悲鳴をあげそうな顔をされたので、周囲に目を配りながら早口でさらに答える。
「倒せたからだいじょうぶ。〈女神の猟犬〉ならまず倒れない。
ただの犬にそこらの性悪な精霊が憑いただけ」
「ほんと? ――あっ、疑ってごめんなさい。倒してくれてありがとうね」
「ほうほう。こんなに小さい嬢ちゃんが森の魔物を倒したか」
割り込んだしわがれ声に振り向くと、しなびた老爺が湯気の立つマグカップを2つ
持ってにこにこしている。
「じゃあもしかすると、嬢ちゃんが勇者なのかね」
「そうなのよ。おじいさん、お年なのに耳がいいのね」
小さいと言われてムッとしているエッダのかわりに、愛想笑いを顔にはりつけなおしたミアが答えた。
「いやいや」
ほっほっと笑いながら老人はカップを二人に渡してくれた。山菜がたくさん浮いている温かいスープだ。
「吟遊詩人が来たときいて、耳だけ若返ったのかもしれんな。
まあ、お疲れだろうから歌をねだったりはしないよ」
「あら、そういうことならお気遣いは――
あっダメ、たいへん、今日一日、楽器を振り回しまくりだったわ」
ミアはもらったカップを椅子において地べたに座ると、肩から竪琴ケースを下ろし、真剣に中をあらためだした。
「まあ、熱いうちにスープをおあがり。とっておきの薬草も入れておいたよ」
「……いただきます」
「ありがとう。でも、わたし、猫舌だからちょうどいいの」
「そうかい」
うなずく老爺を、エッダは湯気を吹きながらじっと見た。
「怖い目で見ないでおくれ。小さいと言ったのが気にさわったかね?
しかたなかろう? そんなに小さいのにどえらい立ち回りをした様子じゃ。
此度の勇者は、いにしえの巨人の子孫だという噂はまことだったかと――」
ジャーン……!とミアが竪琴の全部の糸をかきならした。
一瞬気まずそうな顔をしたが、集中して調弦をはじめる。
「いやいや、爺の野暮だ。すまなんだ。ゆっくり休みなされ」
「ごちそうさま、おやすみなさい」
「なんの。おつかれさん」
「……ごちそうさま」
番人が何か皿と小さい樽を持って来たのと入れ替わりに、老人はテントの一つに戻っていった。
「おやすみ、じいさん。――さ、こんなものしかなかったが」
切り分けたパンと燻製肉の皿とエールの小樽をエッダに両方わたして、番人はミアが爪弾く琴の音に目を細めながら、ねぎらいの言葉をかけて行った。
炉に燃える火の息吹きに、不規則な弦の共鳴が伴奏を添える。
「――巨人の子孫なのに小さくて悪かったな」
静けさに耐えかねたようにエッダがぼそっと言うので、ミアもたまりかねて爆笑してしまった。
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