自然体

一ノ瀬うた

第1話 出会い

 思い出せない過去がある。それは、一人の女の子との出会いだ。僕が泣いてたあの日、そっと手を差し伸べてくれた。優しい声色で、優しい笑みで僕に話しかけてくれた。


「名前は何?私は○○」


 まどろみの中で、繰り返し脳を回転させる。思い出せないんだ。少女はさらに語りかける。


「大丈夫だよ。私に付いてきて。あなたはまだ世界を知らなさすぎる」


 何で僕はあの日泣いていたのだろう。心配されるなんて、余計なお世話だ。僕だって一人で考えて行動できるし、ちょっとしたことで泣くようなことは無い。じゃあ何故……。


 少女が僕の目を見つめる。その瞳はガラス玉のように透き通っていて、美しい。何でも見透かされているような気がして、何だかムズムズした気持ちになる。


 やがて僕は少女の手を取り、立ち上がった。少女は微笑む。僕よりいろんなことを経験してきたかのような表情。それは僕を安心させるものであり、どこか大人びていた。


 少女は歩き始める。真っ直ぐ、一歩ずつ。僕の手を引いて、早く早くと急かす。僕は着いていく。少女を信じて、その背中を見つめながら。


 どこに導いてくれるのだろう。僕は一体どこへ向かっているのだろう。そんな不安を抱えていた僕の心を見透かしたように、少女は言う。


「お月様がこっちへ来てって言ってる。大丈夫。お月様、こっちを見て微笑んでいるでしょう?怒ったりなんかしないよ。お月様も、早く来てだって」


 空を見上げた。確かにそこにはお月様がいた。信じられないが、目や口、鼻、人間と同じようにお月様にも顔があった。少女が言った通り、優しく微笑んでいる。その笑顔は少女によく似ていた。


 意識が遠のく。ああ、もうすぐ朝になってしまう。目の前の景色が歪んだ。かすみがかかり、ぐにゃぐにゃと粘土のように形を失う。やがてマーブル模様の景色が僕を誘う。さっきまでいた少女とお月様はもうそこにはいなかった。


 ──ジリリリ。けたたましい音が脳に響く。手は無意識に音の鳴るほうへ伸びる。

 ──ジリリリ、ジリ。


 僕は体を起こし、大きく伸びをする。眩しい光が視界を遮る。今日も朝が来た。その事実にほっとする。明けない夜は無いのだ。


 顔を洗い、タオルで拭き取る。鏡にはいつも通りの顔があった。髭が生えてきた。また帰って来たら剃ろう。男の僕は髭が生えるのは当たり前だ。しかし、毎日そんなことを思うと何だかうんざりする。


悠里ゆうりご飯できたよー」


 母の声が耳に届く。きっといつも通りパンとスープだろう。お腹を空かした僕は、着替えをしてリビングに向かった。

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