第9話 それは本当の笑顔なのだろうか

 見れば、善良と上品を絵に描いたような公爵夫人が、静かに駆け寄ってきていた。

 レーヴェンタール伯爵家の本筋にあたる公爵の妻であった。初老の公爵夫妻はなにくれとなく、まだ若いエリアスやアガーテに目をかけてくれる。

 子供を産まないアガーテを離縁しろ、というエリアスの母を「仲が良い二人を無理やり引き離しても、良いことにはならない」と説得したのもこの夫妻だ。


 公爵夫人は、上品に小じわの寄った顔を曇らせながら、アガーテの背中を撫でた。

 

「……アガーテ。顔が真っ青。どうしたの。お医者様を呼ぶ?」


 いつもだったら「おばさま! お久しゅう」と彼女の腕のなかに飛びこんでいるところだが、今回ばかりは立ち尽くすばかりだった。


「アガーテ?」


 夫人がアガーテの凍てついている顔を覗きこんでいると、庭園に面した吹きさらしの回廊から、もう一つ、穏やかな声が響いてきた。


「夫がおらずに寂しいのではないか」


 その人格の円満さを示すように恰幅のいい公爵本人が、妻の後からゆるゆると近寄ってきて、白い髭を撫でながら笑う。

 公爵夫人は微笑んで頷いたあと、いたずらめいた目でアガーテの顔をまた覗きこんだ。


「それか、ひょっとして、……、とか?」

「そうであってくれたら嬉しゅうございますわ。でも、違うと思います」


 冷えちゃうわよ、と公爵夫人はアガーテを促して手早く吹きさらしの回廊のなかへと連れて行き、ショールをかけてくれた。


 礼をいいながら、胸が痛む。


 子が血とともに流れてからは夫は自分の寝室へ来ることはなくなった。

 まるでナイフで刺されて殺されたかのように、あまりに大量に流れる血を見てから、エリアスは何かにつけて臥所をともにするのを避ける。夫は自分の行為の結果として妻をひどく流血させたこと、それ以降、妻がもぬけの殻になったことを、気に病んでいるとはわかっている。


 エリアスには多くの女性が群がってきて、火遊びめいたことをするのにもかかわらず、女性を求めるという感情が薄かった。初夜の後、寝室を一緒にしたのが数ヶ月後だったので、みんなが心配しちゃう、と頬を膨らませていたら、そう告白された。困っているんだ、仕事が忙しいときや気分が沈んでいるときは、女性を憎たらしいとか薄気味悪いとさえ思うからね、と。

 アガーテはその物言いに噴き出してしまい、じゃあわたくし、あなたの気分が沈んでいるときは、もっと薄気味悪いおばけになっておくわ、と答えた。

 友達のような夫婦でいよう、と彼は言った。そのときのアガーテも、それを笑顔で肯定した。二人は非常に仲が良く、臥所を一緒にするかしないかはさほど重要な問題ではなかったからだ。


 だけれども、今は思いっきり抱きしめて欲しかった。——生まれるはずの子供に用意していた愛情が、行き場をなくしているのを、夫に分かち合って欲しかった。 

 惨めな気分になって、エリアスのそっと触れてくる愛撫を思い出す。腕のなかでアガーテに囁くさざ波のように優しい睦言も。


 アガーテは公爵夫人に弁明する。


「おそらく少し、……大変なことが立て続けにあって、しかもまだ身体も万全でなくて。ひどくふらついてしまいましたの……」


 流産を経験したことのある公爵夫人が「そうね、身体をいとわないと」とアガーテの背中を撫でた。

 王妃の従妹の悪口を言うことは避けた。彼らに言って事をおおごとにしたくはない。


「では、元気になる秘薬をさずけよう」


 公爵の白い手袋に覆われたがっしりとした手が、手紙を渡してくる。


「エリアスからだ。あちらを旅していたら、物価が上がって、郵便さえ不便になってしまっていてな。託されてしまった」


 夫人は「なんだか、古城だか廃墟を見たいとかおっしゃって、今、とんでもないことになってるグリューンガウにいっちゃったのよ、このお方」と盛大にため息をつく。

 公爵は旅をこよなく愛している。夫人はいつも呆れかえって、つねづねアガーテに愚痴をこぼしているが。


 手紙を受け取り、その場で開く。便箋からは懐かしい香りが立ち上り、愛おしいおおらかでゆったりとした文字が彼女の目を和ます。


「ほら、元気になった」


 公爵は腕を組んで大きく笑う。アガーテは手紙を抱きしめる。


「エリアスはお元気でしたか?」

「元気、元気。相変わらず群がってくる女たちに囲まれて、大はしゃぎし」


 アガーテはその公爵に向かって眉根をひどく寄せた。


「で? エリアスは?」

「いや、楽しそうにその女たちと観劇していたが、夕方ごろに全員家に帰していたよ。その帰り道にこの手紙を渡された」


 アガーテはその公爵に向かってふたたび眉根をひどく寄せた。公爵夫人は「あなたも大はしゃぎして遊んだってことね」とひどくため息をついた。


 エリアスは陽気な性格のせいか、割と軽薄なところがある。だが、ふと夫を責められないことに気づく。


 第二王子のゴットフリートに呼ばれて、逢瀬めいたことをした。くちづけもした。気の迷いとは思うが、心がさざ波のように揺れた。——女と戯れる夫を責められない。


 公爵は「でな」と言いにくそうに口を開く。


「……アガーテ、エリアスは、お前に転地療養を希望していたよ」

「え?」

「そうね。……それがいいかもしれないわ」


 公爵夫人が名案とばかりに、少々淋しげに頷く。


「アガーテ。きっとたぶん、あなたはぎりぎりで正気を保っている。わたくしも経験があるわ。このままだと、あなたは本当におかしくなってしまうわ。しばらくゆっくりしたほうが……」

 アガーテは首を大きく横に振る。

「わたくしはどこもおかしいところはございません。大丈夫ですわ。今、子供ができなければ、もうわたくしには時間がございませんし。また子供は出来ると信じてますから。エリアスがお戻りなられれば」

「……」


 困ったような笑みを、夫妻が浮かべている。夫人がアガーテの肩を優しく叩く。


「アガーテ。そんなにご自身を追い詰めないで。いいの。子供ができなくとも。いなくとも、幸せな人生を送ってらっしゃる方はいっぱい——」

「おばさまも、わたくしをおあきらめになるの?」


 アガーテのひび割れた声に、公爵夫人は痛ましいものを見たような顔になった。優しい夫人を傷つけた。


「申し訳ございません」


 頭を下げると、公爵が言う。


「アガーテ。エリアスが私に言っていた。妻は春からよく笑うようになった。明るくはなった。けれどそれは本当の笑顔なのでしょうか、と。自分や王妃に気を使って笑っているだけなのではないか、と」


 アガーテの林を思わす緑の瞳はひどく揺れた。


 ——なら、仕事を辞めてそばにいてよ。わたくしをあなたでいっぱいにしてよ。エリアス!


 自分の心の奥底の悲痛な怨みと叫びが、アガーテの瞳を食い破るような痛みをもって、涙を溢れさせる。

 魂がひび割れたような悲鳴をあげて、地面に倒れ伏しそうになったその直前、誰かに抱きとめられた。


「……ゴットフリート殿下?」


 公爵のかしこまる声が耳に残った。


 

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