第5話 魔性が、疼く

 愕然としたのもつかのま、心の熱を帯びた部分に操られた彼女は、とどまるところを知らず、少年の唇を奪った。新雪のようにまっさらで何も知らないのだろう彼は、少し驚いているようだった。優しく彼の唇を貪ってあげる。

 乾燥した大地に降りしきる慈悲の雨のような、優しく甘いくちづけを与えられた王子の、紫の瞳が見開かれた。

 あまりの衝撃に王子はじらって唇を離そうとしたが、伯爵夫人はそっと彼の後ろ首を手で押さえ、自分の方に引き寄せた。

 最愛の女の大胆な行動に触発されたらしい王子は、今度は彼女の唇を不器用ながら激しく貪り始めた。


 ——本当にかわいい子。

 

 王子の手がアガーテの背中に伸びる。そのしなやかな指が、大きく後ろの開いた部分に伸び、彼女の背中のなめらかさを味わい始めた。そのとき、アガーテは頭に冷水を浴びせられた気分になった。


 ——わたくしったら、何を。

 

 彼を半ば無理やり押し返して唇を離す。

 アガーテの口紅で、ゴットフリートの唇は血を塗ったかのような真紅に染まっていた。それがなまめかしかった。

 

「……ふしだらだ。頭がおかしくなりそうだ」


 ゴットフリートが頬に染めて、唇を抑えている。


「……申し訳ありません、殿下、お許しを」


 何をやっているの、自分は、とアガーテは焦り、急いで懐からレースのハンカチを取り出して王子の口元を拭う。おそらく真面目な彼は怒り、失望したと彼女を追い返すだろう。あの女官の目論見どおりだ。

 先ほど自ら王子を誘うような行動をとったが、あの女官の思惑に乗っただけなのだ、と自分に言い聞かせて罪悪感を薄める。


 だが、ゴットフリートは怒ることなく、ハンカチで唇を抑えたままうつむいて、聞きにくそうにアガーテに対してたずねてきた。


「……世の恋人たちはこんなことをしているのか?」


 アガーテもうつむいた。


「……はい」


 王子はアガーテの顔を覗きこむ。金糸のごとき髪がさらりと頬にかかっている。


「……で、では、伯爵夫人は、ご夫君と今のような激しいくちづけをしているのか?」


 焦って譴責けんせきしているような王子の声に、羞恥を掻き立てられる。


「はい、まあ……」


 何を聞いているのだ、この少年は、と半ば呆れそうになる。


「……。では、他の男とは?」

「有り得ません」


 首をきっぱりと大きく横に振った。何を言っているのだろう、彼は。


「では、夫以外では僕にしかしてくれたことがないのか」


 彼ははじらいながらも満足げに視線を伏せた。長く整った黄金の睫毛が紫の瞳にかかっているようにみえて、ぞっとするほど美しかった。

 ゴットフリートは手袋をしておらず、育ちの良さを感じさせる傷ひとつないしなやかな指が、アガーテの白く滑らかな手に伸びた。指を絡ませてくる。静かに甘く囁かれた。


「僕とアフタヌーンティーをしよう、アガーテ」


 いつのまにか名前で呼ばれている。そのことに、心臓がばくりと跳ねた。


「……殿下、その……」


 頬を上気させ、声をうわずらせてしまうと、ゴットフリートが非常に真面目な顔をして、困った声を出す。


「アガーテ、やはりアフタヌーンティーは嫌か?」

「そ、そうではなく……、少し驚いたものですから」


 ゴットフリートは大人びてはいるが闊達かったつな笑いを漏らした。


「何に驚くことがある? 僕がアフタヌーンティーをしそうにない顔をしているからか? 貴女あなたは僕のことを知らないらしいし、僕は貴女と一緒に茶すらまともに喫したことがない。アフタヌーンティーくらいしようと思ってな」


 さすが謹厳なご性格、とアガーテは自分を恥じた。閨云々は王妃やあの女官が暴走していることで、本当に「話し相手」が欲しいだけなのかもしれない。くちづけはしたかったようだが。


 だけれど、と彼女は少し混乱する。


 ——エリアスがいながら、他の殿方に、しかもかなり年下の方に翻弄されている。


 いけない、と首を小刻みに横に振って、動揺をなだめるように深呼吸をする。


 手を引かれて、庭園を共に歩く。

 薔薇の香りと、その脇で、ぽつぽつと咲いていたライラックの香りが鼻腔を満たす。


「僕は花のことは知らない。一昨年前に嫁がれた姉上のドロテア殿下は花がお好きだった。だから姉上の愛されたこの庭園の世話を丁寧にさせている。——姉上は、唯一、僕をお方だ」

「……ゴットフリート殿下?」


 ゴットフリートの紫の瞳を、アガーテは覗きこんだ。その紫の瞳には氷の膜が張っているように感じた。王子は愛する人に顔を覗きこまれているのに気づき、頬を染めて顔を背けた。


「なんでもない。貴女といると、いらぬことまで話してしまいそうだ。姉上に妙に似ているから」


 ゴットフリートにはすぐ上の姉にあたる第一王女のドロテアが嫁いだのは、おととしの夏のことだった。本心を打ち明けて話せる相手が、ゴットフリートにはいなくなってしまったということなのだろうか。


 連れて行かれた先は、植物の絡まるパーゴラが置かれた、白亜の大理石のテラスだった。

 手をしっかり取られて、テラスにつながる階段を上ると、やはり鉢植えの真紅の薔薇が咲き誇り、その隣には小さな鉢にいくつか植えられた愛らしいイベリスがあった。


「アガーテも花が好きか?」


 花に見とれていると、王子からそう尋ねられた。


「はい。心を慰めてくれます」


 そう微笑むと、ゴットフリートは素直に微笑み返した。混じりけなく純粋で、穏やかな。

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