№3 『影』、見参

 鈴の鳴るような少女の声が聞こえたのは、そんなときだった。


 乱雑な口調が耳に届いたその瞬間、ふいに自分の影がうごめきながら形を変える。にゅう、と地面から生えるように伸びたのは、ひとの姿だった。


 黒いセーラー服と長い三つ編みの背中。スカートから続く黒タイツの足は細く、明らかに少女のそれだった。


 その少女が、襲い掛かってきた『ノラカゲ』を裏拳で殴りつける。


 『ノラカゲ』は軽々と吹っ飛び、べちゃ、と地面に叩きつけられた。


 呆然と一連の流れを見守っていると、少女が振り返る。眼鏡の向こうの燃えるように鋭い赤い瞳からは暴力のにおいがして、紅でも引いているかのような唇には満開の笑みが咲いていた。肌は紙のように白く、人形のように整った相貌をしている。


「ふはっ、襲われてベソかいて、オンナノコかっつうの! なっさけねえ」


「かっ、影……!?」


「そうさ、アタシはあんたの『影』だ……って、説明するより先に、あっちをまずなんとかしねえとな」


 と、少女は態勢を整えつつある『ノラカゲ』に向き合った。そして、『よっこらせっくす』と卑猥な掛け声をかけて、ずるり、と足元の影から何かを引きずり出す。


 それは、真っ黒に塗りつぶされたチェインソウだった。少女が構えると、エンジンがかかる。馬のいななきのような産声を上げたチェインソウの刃は、うなりながら高速で回転を始めた。


「さあ来な、チンカス『ノラカゲ』! 挽肉パーティーといこうじゃねえか!」


 らんらんと瞳を輝かせて笑う少女に、『ノラカゲ』が襲い掛かる。


 津波のように降りかかる黒い『影』を、うなりを上げるチェインソウが、ぢゅる!と削り取った。真っ二つになった波濤は、片方が墨汁のようなシミになって地面に散らばり、やがて消える。


「あはあははは! もっと遊ぼうぜぇ!」


 消えなかった方の『影』に向かって、今度は少女の方が飛びかかる。チェインソウを引っさげ、切り上げるようにして『ノラカゲ』の中心部をとらえた。ぐ、とちからを込めて振り抜けば、『ノラカゲ』は弾ける水のようにばらばらになって辺りに飛び散り、その黒い水滴も地面に落ちれば染みこむように消えていく。


 少女がチェインソウを下ろせば、うるさいくらいだった駆動音もぴたりとやんだ。


 あとには、腰を抜かしたハルと背を向ける少女だけが残された。


 くるり、少女が振り返る。こちらへ歩み寄りながら投げ捨てたチェインソウは、影に飲み込まれるようにして地面に沈んでいった。だんだん距離が縮まっていく。


「……あ……」


 声が出てこない。そんなハルの目の前までやってきた少女は、足を振り上げると、だん!とハルが寄りかかっているビルの外壁のそばを蹴りつけた。そのままかがみこむようにハルに顔を寄せる。赤い、赤いくちびるには、振り切れたような鮮烈な笑みが浮かんでいた。


「やっほー、ションベン漏らしのご主人様」


「もっ、漏らしてない!」


 反射的に言い返して、それからヤバイと悟る。本能的に、こいつには逆らわない方がいいような気がする。


「じゃあベソかきのご主人様よぉ、さっきのありゃあなんだ? 情けなさすぎて思わず出てきちまったぜ」


「出てきた……? き、君も『ノラカゲ』なの!?」


 自分を食うつもりなのだろうか、と身構えていると、少女は大げさに嘆くように肩をすくめ、首を横に振った。


「なっちゃねえな、まるでなってねえ。アタシは『ご主人様』っつったんだ。つまり、アタシはアンタの『影』だ。野良じゃねえ」


「じゃあ、これから僕を食べて『ノラカゲ』に――」


 ふ、と壁にかかっていた足が宙に浮く。気が付くと、脳天に痛みが降ってきた。くらくらしながら、ああ、かかと落としされたんだ、と合点がいく。


「あーもう、これだから出てきたくなかったんだっつの! ビビりすぎ! アタシはアンタを食う気なんて毛頭ねえし、野良になるつもりもまったくねえ! アンタの『影』になってからずっとずっとずううううううううっと、アンタのそばに潜んでたんだよ! んで、ご主人様がピンチでお姫様みてぇに震えてるっつうから出てきたんだよ、そんくらい分かれ!」


 かかと落としをされてくらくらする頭で、なんとか説明を噛み砕く。


 要するに、彼女は『ノラカゲ』と同じ存在でありながら自分という主人を持ち、そしてその主人を乗っ取るつもりもないという。


 …………いみがわからない。


「君は『影』で、でも『ノラカゲ』じゃなくて……僕が、主人で、それで、君が影で……えっ? えっ?」


「頭蓋骨開いてお脳みそ手捏ねハンバーグにしてやりてえ! 理解力ねえなあ、要するに、アタシはアンタの『影』で、敵じゃねえ、そんだけ理解して、あとはなにも言うな、うるせえ」


「けど、なんで女の子に……?」


 『影』とは、『実存』に寄り添った存在ではないのか。少なくとも自分は男だし、こんなハイテンションでもないし、下品でもない。


 少女は『よくぞ聞いてくれました!』とばかりに舞台役者ばりに諸手を広げて語り出す。


「『陰陽思想』って知ってっかあ? 中国の、白黒の丸のアレだよ。アンタは光、アタシは影。アンタは陽、アタシは陰。アンタは男でアタシは女。内気で妄想狂で女々しくてムッツリスケベでドМで陰キャのアンタとは真逆のアタシは素晴らしくステキックなベリーハッピー美少女! そういう風にできてんだよ」


「『陰陽思想』……」


 聞いたことはある。それにしても、こんなとんでもない女が出てくるあたり、元になった光の自分もたいがいということか……と密かに落ち込む。


 唐突に、少女がハルの頭に手を伸ばしてきた。そして長い指でハルの頭を鷲掴みに、というか髪の毛を引っ張るようにすると、そのまま引きずって歩き出す。


「いでででででで!!」


「あはは、イイ声で鳴くじゃねえか。これがイヤなら自分で立って歩くんだな」


 笑う少女の手を振りほどくように立ち上がると、涙目でわめいた。


「ぼ、僕の『影』だって言うなら、さっさと影に戻れよ!」


「やーなこった。バレちまったからな、これからは好きにやらせてもらうぜ」


 と、少女はやけにしとやかな仕草でスカートの裾をつまむと、膝を折って一礼した。


「好きに、って……!?」


「やっと出られたシャバだ、アンタも割と面白そうだし、女学生としての生活ってやつっを満喫するのさ。いっしょにな。どうだ、うれしいだろ? んん?」


 冗談じゃない。真っ青になっていると、けらけらと少女が笑った。


「塚本ハル、アタシのご主人様、これからヨロシクぅ♡」


「……アンフェアだ」


「……は?」


 初めて少女の顔に疑問符が浮かんだ。してやったり、という気持ちになったが、言わないでおく。代わりに、


「君は僕の全てを知ってるらしいけど、僕は君のこと何も知らない。まずは名乗るのが礼儀ってもんだろ?」


 生意気を言ってしまった、と後悔しても遅い。また何らかの攻撃が来ると思ったが、返ってきたのは大爆笑だった。


「あはっははあっははははははっははは!! やっぱアンタ面白ぇわ! そりゃそだな、まだ名乗ってなかった……っつっても、アタシに名前なんてねえんだけど」


「じゃあ、カゲコでどうだ? 影子」


「ふっは、安直! でもまあ、ご主人様からの最初の賜りものだ、ありがたく頂戴するぜ」


 吹き出しながら、少女――影子は、ハルに向かって手を伸ばしてきた。平手打ちでもされるのかとびくついていると、強引に腕を持っていかれる。手と手を握り合うこれは……握手、なのだろうか?


「名前を付けるってことは支配するってことだ。アタシはアンタのもんだよ。よろしくな」


「こちらこそ……」


 とんでもないことになったぞ、と思いつつも、口から出てきたのはそんな言葉だった。


 こんなの、妄想すらしたことがない。


 自分を守るために現れる美少女、なんて。


 ……けど、事実は小説よりも奇なり、だ。


 こういうのも悪くはない。


 へらり、と笑って見せると、今度こそボディブローが飛んできた。


 ……やっぱり、冗談じゃない。

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