生霊

「京華。お爺ちゃんが護摩の効果の程を見てこいって言うから、私、遥斗はるとさんのところへ行ってくるね」

「じゃあ。私も付いていくよ」


 京華は遥斗のことが心配でしょうがないのだが、一人で見舞いに行く勇気もなかったようだ。凛月の話を渡りに船と思ったに違いないが、仮に霊障だったとすると、彼女を同行させるのは危険だ。凛月は、なんとか京華の申し出をやんわりと断った。


 遥斗は、本町常務の自宅の一室に滞在している。

 訪ねると、常務の奥さんが迎えてくれ、部屋まで案内してくれた。


「ありがとうございます。申し訳ありませんが、ここから先は二人だけで話がしたいので」

「そうですか」


 若干不審そうな様子を見せながらも、常務の奥さんは居間へと戻っていった。


「さて……と、哪吒ナージャ。何か感じる?」

かすかだが、邪悪な気配がするな」


「ええっ! それって並みの怨霊とかじゃないってこと?」

「さあな。とにかく直接見てみないと」


 が、そのとき。

 遥斗がいる部屋から誰かが暴れているような物音がした。


 哪吒が、ノックもせずに急いで扉を開けた。確かに、緊急事態っぽい感じがする。


 中の様子が見えて、凛月は仰天した。

 怨霊が遥斗の首を絞めている。その顔は、目は血走り、口が裂けるほど口角を上げ、歯をむき出しにしている。まるで獰猛な獣のようである。彼は、その苦しさでのたうち回っていたのだ。


 凛月は哪吒を見つめるが、ソッポを向かれた。


(私がやれっていうことね。わかりましたよ。なんで私ばっかり)


 少しムッとしたが、ことは急を要する。


「さむばら さむはら、さむばら さむはら……」(サムハラの大神=造化の三神〔天御中主神あめのみなぬしのかみ高御産巣日神たかみむすひのかみ神産巣日神かみむすひのかみ〕よ)


 真言を唱えながら、凛月は刀印に霊力を込め、怨霊の手を打ち据えた。怨霊は、それに怯み手を離す。

 その隙を見て、横向きに上から五本の線、縦向きに左から四本の線を書いて九字を切る。


りんぴょうとうしゃかいじんれつぜんぎょう! のぞつわものたたかう者、皆、陣ならべて前を行く!」


 これにより、怨霊は動きを封じられた。

 怨霊調伏といえば、不動明王真言だ。その憤怒の炎で浄化するのである。


 それを唱えようと凛月が息を吸ったとき……。


「待てよ! わからねえのか。そいつ生霊だぜ。下手に調伏したら本人が大変なことになるぞ」

「ええっ! そんなこと言われても」


(そうよ。困ったときは万能薬。困ったときの光明真言だわ)


「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん、おん あぼきゃ べいろしゃのう……」(あな 金剛界五仏〔不空成就(釈迦如来しゃかにょらい) 毘盧遮那仏びるしゃなぶつ大日如来だいにちにょらい) 阿閦如来あしゅくにょらい 宝生如来ほうしょうにょらい 阿弥陀如来あみだにょらい〕よ 慈悲のはちす光あふれて清けられ うん)


 光明真言は、すべての災難を取り除く密教最強の真言と言われている。

 その効果もあって、生霊はしだいに浄化されていき、その顔も穏やかになっていく。


 すると、ふと怨霊の背後の影から獣のようなものが逃走していく姿が見えた。何者かは見極められなかったが、二股に分かれた尾が印象に残った。

 ふと哪吒の方を見たが、彼も虚を突かれたようだった。


 穏やかになった怨霊の顔を見て、凛月は驚いた。なんと、京華の母、旭子あさこだったからだ。


 とりあえず、事態は落ち着いたと見て、凛月は九字を解く。


「をん きり きゃら はら ふたらん ばそつ そわか をん ばざらど しゃこく」


 そして、まだ苦しそうにしている遥斗に向けて呪文を唱える。


六根清浄ろっこんしょうじょう 急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう」(六根〔眼・耳・鼻・舌・身(体)・意(心)〕を早々に浄め清らかにせよ)


 それが効いて遥斗は楽になったようだ。


「あのう、もしかして具合が悪かったのって?」

「ああ。もう今更だね。そうなんだ。実は、ずっと社長の奥さんの霊みたいなやつに苦しめられていて」


(確かに、そんなこと人には言えないわよね。相手も相手だし)


     ◇◆◇


 翌日。凛月は、学校を休んだ。

 旭子が一人のところを訪ねるには、家族が会社と学校へ出かけた隙を狙うしかなかった。


「あのう、信じられないかもしれませんが」


 凛月は、生霊の話を旭子に話して聞かせた。すると、みるみるうちに旭子の顔は真っ青になる。

 そして、観念して彼女の気持ちを話してくれた。


 旭子夫婦には、遥斗と同じ歳の長男、和希かずきがいた。

 和希が初子だったこともあって、彼女は牛が子牛をなめ可愛がるがごとく溺愛した。これを舐犢之愛しとくのあいという。


 和樹は、中堅どころの私立大学には入れたが、成績は芳しくなく、夫の会社に就職した後も勤務成績はパッとしなかった。

 彼女としては、息子に会社を継いで欲しいのだが、そこに遥斗という強力なライバルが現れた。


 そこで、旭子は、理不尽だとわかりながらも遥斗を許せなかった。怨まずにはいられなかったのだ。


(う~ん。もともとパラノイア気味のところを、昨日見た獣みたいなものに煽られたのね)


「とにかく、なんとか自分に言って聞かせます」

 と、旭子は言ったが、理性で割り切れないところが、この話の難しいところだ。


 母性愛というものは本能によるところが大きいし、パラノイアは治療が難しい。これを理性で言って聞かせたところで、すぐに解決するのも難しい。


(そこは家族みんなで考えてもらうとして、私は、せめて昨日見かけた獣みたいなものをなんとかしなくちゃ)

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