回想 —堀田弘海の場合—

 就活もひと段落、あとは夜遊びが過ぎてとりこぼした単位を回収し、卒業まで大人しくしていようと考えていた矢先であった。

 深夜のアスファルトは濡れて黒光りし、周辺の眩いネオン看板が歪んで反射している。冬の雨の鋭さに頬が凍てつく中、堀田はビニール傘の奥から数歩先の人集ひとだかりを眺めていた。


「約束したじゃない!」

 衆目の中心で叫声を上げるのは、堀田の母だ。彼女はホストクラブ「トワイライトキス」の眼前で地面に膝をつき、雨に凍えるのも構わず、約束だとか絶対に動かないだとか喚き続けた。

 いい加減にして欲しい。堀田は黒縁眼鏡の位置を正して、短く嘆息した。自分の息子とさして変わらない年齢のホストに熱を上げ、こうやっていい見せ物になるのは何度目だろうか。

 わざわざ埼玉の田舎からせっせと迎えに来る自分は、なかなかの孝行息子だと自負できる気がした。叫び散らかしているあの女は、そんな堀田に見向きもしないが。


 店から黒服が出てくる。そろそろ、他人のふりをして現実から目を逸らすのにも限界が来そうだ。堀田は母を引き取る覚悟を決め、一歩踏み出す。

「うるっせぇんだよ、ババア! ぶっ殺すぞ!」

 激情したチンピラの定型分のようなセリフが、雨音と、ついでに堀田の曇った気分を掻き消した。驚きのあまり、その言葉が、母と対峙する小柄な黒服から発せられたものと気づくのに遅れた。


「黒服が客に逆らうなっ」

「ハァー!? てめえ出禁のストーカーだろっ」

「あんたじゃ話にならない、店長呼んで!」

「俺が店長に呼ばれて出てきたんだっつの」

「私が店長呼んでるって言ってんのよ」

「何が違うんだよ!」

 頓珍漢な会話に違和感を覚えて、堀田は小走りで二人に駆け寄る。こちらが声をかける前に、黒服の男は母の手を掴み、無理に立たせようとした。

「いいから帰れよ、ここ寒いんだよ」

 まずいな、と思った次の瞬間には、母の絶叫がひしめくビルにこだました。

「犯されるう!」

「は? ババアふざけ——」

「暴漢! 性犯罪者よ!」

 誰か助けてと、半狂乱で暴れ始めた母を見ながら、感情という感情が体から抜け落ちていく気がした。煙草が欲しい。一服して状況が変化した頃にまた様子を見に来ようかと、堀田はきびすを返した。


「気持ち悪いな!」

 簡潔な暴言とともに、べしゃりと水の跳ねる音。雑踏が刹那的に盛り上がる。振り返った堀田は、目を丸くして立ち尽くした。

 あれだけ騒々しくしていた母が、茫然と地に倒れ込み、拳を握りしめる黒服の男を見上げていた。

「お前、全部きめえんだよ、あと嘘つくな!」

 彼の語彙力はさておき、親族も、周囲の人間も、そして堀田すらも触れずにそっとしておいた事実を、初めて母に突きつけることができた気がした。


「うるさい犯罪者っ!」

「大人ンなってからは何もしてねえよっ」

 いやたった今、人を殴った。頭の中でそう言い返す余裕ができると、堀田は漸く黒服の男に声をかけた。

「すいません、その人の息子ですが——」

「あ?」





 その後、キャッチから騒ぎを伝え聞いた他の従業員が黒服の男を制止した。堀田は、通報しようかと尋ねた通行人に、後日被害届を出すから問題ない旨を伝え、従業員たちに騒ぎを起こしたことを一言詫びてその場を去った。

 それから数日後、母と同居する県営住宅の一室のインターホンが鳴った。他校の女子大生の自宅から帰宅し、風呂から上がったばかりの堀田は、濡れた髪を鬱陶しく掻き上げながら扉を開けた。

 そこには、中年の強面の男と、垢抜けない格好の小柄な男がいた。その彼が母を殴った黒服の男であることは、強面中年——当時のトワイライトキスの店長がそう説明するまで気づけなかった。


 店長は、母のキャストに対するつきまといを、ストーカー事案として警察に相談していることを告げた。すでに警察から連絡があり、かかりつけ大学病院への入院が決定していることを告げると、店長は一礼して、「殴られたことについて被害届を出すのであれば、この馬鹿は必ず出頭させますんで」と話した。この馬鹿、と言われた黒服の男は、少し不安げに目を泳がせた後、見た目に似合わず深く頭を下げた。

「殴ってすいませんでした」

 同年代に見えるが、まるで少年のような随分幼い謝罪であった。


 堀田は結局、被害届は出さなかった。代わりに、治療費について検討したいと嘯いて、この少年のような男、高瀬龍司の連絡先を受け取った。





 高瀬との付き合いが一年も過ぎれば、会話の端々から(高瀬に自覚があるかはさておき)、彼の日常が法に抵触しかねない事情のオンパレードであることを察した。とはいえ、高瀬が堀田を直接そう言った世界に引き込むことはないし、またこちらの「人間関係」について説教を垂れることもないので、気安くつるむのに丁度よかった。


「そういえば、今から来るやつが面白いやつでよ」

 高瀬の懐事情に合わせて、二人は激安のイタリアンファミレスにいた。堀田が近々、セフレからの付き合いの女性と入籍することを、高木に報告しようと連絡を取ったのだ。

 高瀬は一通り、驚いて祝福して感嘆した後、話題に飽きたのか、先の発言のとおり話の舵を切った。堀田としても、母の戸籍から抜けるいい口実であるとして了承した結婚であるため、高瀬の態度を受けてもさほど不快ではなかった。それよりも、と、堀田は眉を顰める。


「いや、人が来るなんて聞いてないが」

「そうだっけ? ホストなんだけどさ」

「行動する前に話せっていつも言ってるだろ」

「わり」

「…………まあいいよ」

 二文字の謝罪。堀田は諦めて灰皿に立ててあった、吸いかけの煙草を口に寄せた。


「そのホスト、まさか俺の親がつきまとってた奴か」

「そっちじゃなくて、別の店の」

「お前の知り合いか。危ない奴じゃないだろうな」

 すると高瀬は、斜め上に目を向けて暫時考える素振りを見せると、「面白いやつだけど」と前置きをした。

「美形だから、彼女会わせたら寝取られるかもな」

「危ないって、そういう意味じゃない」

「あ、でもお前なら他にもいるんだから、一人くらい平気か」

「話を聞け。それに籍を入れるだけだ。相手の人間関係なんて気にしないし、俺も自由にさせてもらう約束だしな」

「……堀田、お前結婚向いてないんじゃないか」


 言い返す代わりに無言で一服する。高瀬は何も考えていないように見えて、いや、実際何も考えてはいないのだろうが、飛び出す発言は時折異様に真っ直ぐで鋭い。対抗しても面倒なことは受け流し首を突っ込まないのが、面倒な親元で育った堀田の主義だ。高瀬はというと、堀田の無視を全く意に介さず、こちらが奢った薄いピザを食べていた。


「あ、佐々木来た」

 高瀬がそう言うので、堀田は出入口付近に視線を向けた。

「本当にあいつか?」

「そうだよ、佐々木っつうの、美形だろ」

 高瀬に返事もせずに、堀田はその男を見た。少し派手な髪型をしているが、その好青年は芸能人にもそういないような整った顔立ちをしていた。長身の彼はアルバイトの女性店員に声をかけ、真っ赤になって慌てる彼女がこちらを指し示して退散すると、その背に笑顔で礼を告げてこちらに近づいた。


「佐々木、おせえよ」

「やー、ナンパされまくってさあ」

「へえ、すごいね」

「信じてない? 本当だって」

 朗らかに笑い、道中の武勇伝を蕩々と語る美形を、堀田は観察した。髪型同様、私生活も派手なのだろうかと益体のないことを考えていると、美形は高瀬の隣に座り、堀田に笑みを向けた。


「ども! ホストの佐々木です」

「ああ、俺は——」

「堀田くんでしょ? 女泣かせ同士、気が合いそうだな!」

「——あ、はい」

 たぶん気は合わないだろうな、と。堀田は目の前の美形こと佐々木の話を半分も聞かず、適当にあしらった。

 高瀬の逮捕後も、なんだかんだ交流が続き、そうやって佐々木の薄い話をあしらい続けることになるとは、当時の堀田は全く予想していなかった。

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