きみは春の匂い
流川出流
指の微熱と小宇宙
駄目だ、駄目だ。
全然だめだ。
鞭のように撓る腕から、振り乱す髪から汗が滴る。もうどれだけこのフレーズを弾き直しているかわからない。
自分という生身の体が演奏しているのに、ドラムの音色がどこまでも機械のようだと感じることがある。今がまさにそうだ。
また自動的にデモ音源の最初から再生が始まる。溜息と共に停止ボタンを押すと、自分のくぐもった荒い息がヘッドホン越しに聞こえてくる。
「ノックしたよ! 演奏中だったから声はかけなかったし!」
小言を投げかけられる気配を感じたのか、涼が大袈裟な身振りと共に早口に弁解する。その弁解を聞きながら、鼓鐡は涼が地味な黒いバリスタエプロンを着ているのを見て、もう夕飯時なのか、と場違いな感想を抱いていた。嫌味の代わりに涼の手に握られた炭酸水のペットボトルを乱暴に奪い取ると、一口だけ飲んでまた正面のドラムセットに向き直る。
「返事がなかったら勝手に入るなって言ってんだろうが」
背を向けたまま差し入れへの礼も言わずに吐き捨てる。ひと月前、涼の持ち家に住むことになって最初に決めた「鼓鐡が演奏部屋にいる時」の取り決めの一つだが、大雑把な涼がそれらを守ったためしは無い。
「まーたこんな速いテンポの曲作って……」
鼓鐡の不機嫌そうな声色もどこ吹く風といった様子で、涼が背中越しに譜面を覗き込む。自分が努力する姿を人に見られるのは嫌いだった。他人の曲を練習している時ならまだしも、それが自作の曲だった時は最悪だ。鼓鐡は涼の言葉に思いきり顔を顰め、悪餓鬼のように舌を出した。
「うるせェな。集中してんだから黙ってろ」
後ろから聞こえた苦笑混じりのため息をヘッドホンで押しのけると、また鼓鐡の半径86センチメートルは無機的な静けさに包まれていく。もう一口炭酸水を口に含む。納得できない自らの演奏と無神経な涼への怒りで集中が途切れる前に、炭酸の泡がはじける心地よい刺激が鼓鐡の口の中いっぱいに広がった。
ぐちゃぐちゃになった思考が落ち着きを取り戻していくのを待ちながら、さっき録音を終えたばかりのドラムパートの音源を反芻する。
なにかが欠けている。久々に作ったオリジナル曲だが、何度ドラムを叩いてもしっくりくるリズムが生み出せない。途中、アクセントになるかと多めに入れたスネアも、全体の不調和を強調するだけで却って邪魔な気がする。
月並みで、刺激の足りない、よくある曲。いや、それ以下の……。
(ボツだな、このままじゃ)
腕を組んで考え込んだところで天啓が降って来るわけでは無いが、今腕を動かしたとしても良い演奏はできないという直感があった。
ここしばらく――いや、正確に言えば涼の家に来てからというもの、鼓鐡はずっとスランプに悩まされ続けている。そして、その原因が一体どこにあるのか、未だに突き止めることができないのだった。
「夕飯、何がいいかい?」
ヘッドホンを外した耳に涼の軽やかな声が届く。鼓鐡が悩んでいる間も、部屋の隅々まで興味深く観察して回っていたらしい。そんな涼が何かを後ろ手に隠すのが見えた。
「おい、何だよ」
鼓鐡がじろりと見咎めると、涼は照れ臭そうにしながらおずおずとオーク材のドラムスティックを差し出した。
「いやぁ……年季が入ってるなぁ、と思ってさ」
「隠すことはねェだろうがよ」
「だってあんた、道具触ったら怒るじゃないか」
「分かってんならなんで触るんだよ!」
「仕方ないだろ、気になったんだからさぁ!」
駄々をこねる涼の言い分を「馬鹿」と一蹴し、その細い手からドラムスティックを奪い返す。長年に渡って酷使されたのが素人目にも分かるほど、褐色のそれはチップからグリップの端に至るまで、木材がひび割れてボロボロだった。今や使うことはなくなったが、これはこれで面白い音が出るかもしれない……と貧乏性な考えから捨てずにいたのだ。
それを涼に見つけられたことに言いようがない気恥ずかしさを覚え、鼓鐡は「そろそろお役御免だな」と言い訳のように呟いた。
涼が鼓鐡の手中の棒切れに慈しむような目を向ける。
(そんな棒にまで情をかけてどうすんだよ)
なんだか居た堪れなくなり、鼓鐡は腰を下ろして天井を見上げる。ドラムセットと録音機材でいっぱいのこの部屋で、わざわざ擦り切れたドラムスティックを拾い上げるところが涼らしい。
で、夕飯何がいい?という再びの催促をかき消すように、腹減ったと横柄に呟く。呆れながらも笑顔を見せてダイニングに戻っていく涼の背中を見つめたまま、鼓鐡は思わず古い相棒を握りしめた。
(――こんなおれで、いいのか)
訊きたくても訊くことのできない問いを、無為に口の中で転がす。分厚くなった掌の皮膚に、ドラムスティックのささくれが柔く刺さった。
*
「全然気に入らねぇ」
「……今演ってる曲のことかい?」
食後にボソリと零した愚痴を耳聡く拾った涼が、洗い物をする手を止める。ごく薄いハイボールを煽りながら喉奥で肯定すると、涼はドラマに出てくる探偵のようにわざとらしく眉間に皺を寄せ、指先で額を叩いた。
「なんだっけ、あの、カードじゃなくて……」
指先から形のいい鼻先に泡が落ちる。キッチンとリビングを仕切る壁越しに手をばし、泡ごと涼の鼻を摘むと、ふにゃ!とどら猫のような間抜けな声が飛び出した。
「それはトランプだし、おれが言いたいのはスランプな」
器用な覚え違いを呆れながら訂正すると、涼が「そうそうそれだよ!」と嬉しそうに手を叩く。馬鹿すぎる。
グラスを手渡してハイボールの二杯目を要求したが、洗われたグラスはそのまま食器棚の中へ監禁されてしまった。
「別に、相変わらずいい音だと思うけど」
シンクに流れる水の音が栓を締める音と共に消える。今度は拭かれた食器が重なる音が小気味良く鳴り始める。
「はっ、素人に解られてたまるかよ」
鼓鐡は咄嗟にそう突き放したが、正直なところ、涼の言葉にうっかり安心してしまうほど落ち込んでいた。
春から涼との同居を始め、もうすぐ初めての夏が来る。新しく始めたCDショップでのバイトも、ドラマーとしての活動も――絶好調とは言えないが好調だ。しかし、ただでさえ不景気な世の中で、万年金欠なことには変わりなかった。そして、今の鼓鐡が快適な衣食住を得られているのは、ほとんどが涼の献身的な厚意のお陰だった。
ほぼ毎日働き詰めなうえ、鼓鐡のために家事までこなす涼の、細く華奢で傷の絶えない手は、鼓鐡の目に酷く痛々しく映る。当の本人は意に介していないとはいえ、女ひとりの厚意に甘えきった生活を続けるのは、男の沽券に関わる。しかもその厚意が、鼓鐡の才能に対してのものなら尚更のことだ。
もっと良い曲を、もっと売れる曲を作らなければ。
時計の針の音がいやに大きく聞こえる。勝手に焦っている自分自身に嫌気がさし、思いがけず大きな溜息が出て、更に落ち込んだ。
「ほら、さっきの……バチ! あれ使ったら面白い音が出るんじゃないかい?」
不意に皿を拭き終わった涼が朗らかに言う。正確にはバチではない、と嫌味な訂正をしそうになるのをぐっと呑み込んだ。
「そんな簡単に変わりゃ苦労しねぇよ……」
同じ思いつきをしていたことが、何故か少しこそばゆい。エプロンを脱いだ涼がテーブルの向かい側に座り、その手に持ったコップの水をこくんと喉を鳴らして一息に飲み干した。
「――今日も夜まで頑張るのかい、鼓鐡さん?」
涼が欠伸混じりに目を擦る。明日の仕事に備えて早くに寝るのだろう。
「てめぇにゃ関係ねェだろ。早く寝ろよ」
「おうおう、機嫌が悪いねぇ!」
ひらひらと両掌を振って怖がる素振りをしているが、笑い交じりの声は煽っているようにしか聞こえない。鼓鐡の後ろを通ってキッチンへ後片付けに向かう涼の気配を意識から追い出す。そうして頭の中でまたメロディーラインを追いかける。
何か無いかと必死に探る反面、自分の中にはもう何もない気がしていた。
思わず手に力が籠もる。鼓鐡の目に、固くなった肉刺が虚しく映った。
その時。
「――ッ!?」
唐突に背筋を甘い電流が走り、意図しない声が鼓鐡の咽喉から転がり出る。
いつの間にか背後に涼が立っている。鼓鐡の髪に触れた手は、そのまま長い髪を掻き分けていた。そして鼓鐡は、ほのかに熱を帯びた涼の指先が、鼓鐡の耳介を陶器の縁でもなぞるようにゆっくりと移動しているのをやっと理解した。
「そんなに気負ってちゃあ、作れる曲も作れなくなっちまうって……」
慈しみと労い、そして少しの姉貴風を吹かせたような優しい声が、鼓鐡の頭上から降り注ぐ。
普段は髪で隠している耳が、涼のしなやかな指先によって撫でられ、摘ままれ、まさぐられていく。
「ああ、そういえばあんた着けてたっけ。普段よく見えないけど、こんなにあったんだねぇ」
浮かれた声と共に、鼓鐡の耳のピアスが指先で弾かれ、硬質な音を立てて揺れた。
涼が手を動かすたび、鼓鐡の背は、首筋は、甘やかな恍惚で否応なしに震えてしまう。そんな鼓鐡の悩ましげな反応に気付いていないのか、涼は上機嫌で鼻歌まじりにマッサージを続けている。
この鼻歌は――。
(これ、今作ってる曲の――)
そう気付いた瞬間、涼が急に両耳を強く摘まんだ。抗えず息を吐く。
(いつの間に覚えやがった……)
涼の突然の奉仕に抵抗するため瞼をきつく閉じたが、却って感覚が鋭敏になった気がする。その時、鼓鐡の長い髪の上に涼の髪が重なった。涼の唇を耳のすぐ傍に感じて、息が止まる。
「なぁ、あんまり無理するんじゃないよ……?」
敏感になった耳元で、甘く、蕩けるような声が、吐息に乗って響いた。
早く終われと願う心の隅に、いっそこれ以上のことをしてくれやしないかというふざけた思惑が湧いて出る。鼓鐡はそれを、遠い宇宙に思いを馳せて紛らわすことしか出来なかった。
「ほらよっ! いつも潰されてる可哀想なお耳にご奉、仕……」
鼓鐡の髪に埋めていた手を離してから、やっと涼は鼓鐡の様子がおかしいことに気付いたようだった。荒い息をしながらそっぽを向いた鼓鐡が首まで真っ赤にしているのを見て、涼はきょとんと目を瞬かせ――したり顔で笑った。
「……へーぇ? そんなに気持ちよかったのかい?」
「――っ、そんなわけあるか……!」
「あはははは!! そうかいそうかい、じゃあまたやってやるよ!」
「ふ――ふざけんな、くそ……!!」
涼が大笑いしながら寝室に戻った後も、鼓鐡はその場から暫く立ち上がることができず、防音室に戻ってからもまんじりともしない夜を過ごした。
*
結局、件の曲は完成することは無いまま、鼓鐡のノートパソコンにデータだけが残されている。そして、その夜の自分が抱えた一抹の疚しさを忘れるべく、鼓鐡は驚くべき速さで次の曲を完成させた。
スランプなどと悩んでいたのが嘘のようだ。徐々に伸びていく自身の動画の再生数をアナリティクス画面で見ながらも、鼓鐡は素直に喜ぶことができなかった。
「あの曲、完成させないのかい?」
あくる日の夕食後、防音室へ向かおうとした鼓鐡の背に涼が投げかける。それに無愛想な舌打ちで応じると、涼も負けじと舌を出した。
「珍しく明るい曲だったから、気になってたんだけどねぇ……」
涼はそう独りごちると、また上機嫌で例の曲を口ずさむ。リビングの扉を後ろ手で閉めたふりをしながら、鼓鐡は廊下でしばらくその歌声に耳を澄ませた。
作曲した時は夢中で気が付かなかったが、言われてみれば確かに明るく、前向きな印象のメロディーだ。涼の爛漫なアレンジを経由すると更にラブソングかと錯覚しそうなほどの甘い温度になる。
(おれが、こんな曲作るようになるなんてな……)
新生活で気合が入ったが故の新境地か。
それとも、涼との生活で浮かれたが故の迷走だったのか――。
鼓鐡は結論を出すことを意図的に諦める。そして涼の鼻歌を追い出すように、いそいそと両耳にヘッドホンを被せた。
――くぐもったヘッドホンの中、涼の甘い声が聞こえた気がして、鼓鐡はまた暫し宇宙へ思いを馳せるのだった。
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