第41話 編集

 電車が大学のある街に向かっていく。

 振動に合わせて、美帆の体が揺れて、隣に座っている麻友の肩と軽くぶつかって、離れて、また、ぶつかる。

 膝の上のバッグの下に、絡められた二人の指が隠されている。人目のあるところでは並んで座ることはできても、手を繋ぐことはおおっぴらにはできない。

 スマホがないから、乗客はみんな所在なげに前を見ている。新聞や本を読んでいる人が少し。スマホを誰も見てない電車って、なんだか変な感じだ。


 駅名がアナウンスされた。


 それは、これから麻友が住む街の駅だった。瞬間、美帆がぎゅっと目を瞑る。覚悟をするように。

 麻友の指が、美帆の指から糸が解けるように、するりと離れた。


 電車の速度が落ち始めて、窓の外の景色の流れがゆっくりになる。


 麻友が美帆の耳に唇を寄せる。



 揺れて、電車が駅に停まる。

「ありがと、美帆」

 その囁き声に美帆が石になってしまったように動けなくなる。

「バイバイ」

 いつもの挨拶のような、声だけを残して、麻友が電車から降りて、そのまま走っていく音がして、プシュッと電車のドアがしまった。

 美帆は動けなくなったまま、前を見ていた。


 ずっと、ただ前を見ている。

 胸の中を何か重いものが冷たく沈んでいくような感じがした。

 美帆はただ正面の車窓を見ている。

 視界が狭まっているような気がするのは、「今」の電車より窓が小さいからだけじゃない。

 短いトンネルに入った時、窓が鏡のようになって美帆の顔が見えた。

 表情がなかった。泣けばいいのに、と思う。

 でも、青白い顔がじっと、わたしを見ていた。


「……好き、って言ってない」

 小さく小さく美帆が呟いた。

「言いたかったなぁ」

 そこでトンネルが切れて、美帆の顔が見えなくなってしまった。




 それから、美帆は一人になった。

 美帆が鏡を見るたびに、わたしは、一人じゃないよ、わたしがいるよと声を掛ける。でも、美帆は気付いてくれない。

 大学は長い春休みに入った。美帆は、アルバイト以外はどこにも出掛けない。たまに大学の図書館に行って、本を読んだり、再来年の教員採用試験の勉強をしたりしていた。


 誰とも会わなかった。




 しばらくして、美帆は、映研行き付けの写真屋さんに行き、現像の終わった8mmフィルムを受け取った。最後の日、海で撮影した麻友が映っているフィルムだ。

 そして、誰もいない春休みの映研の部室にこもった。そもそも、美帆は、年が明けてから一度も映研に顔を出してはいなかったけれど。


 部室には、小さな画面の両側にフィルムを手回しで巻き付けるリールが付いた編集機と、フィルムを切ったり繋げたりするスプライサーという機械がある。

 美帆は、それで麻友の映像を編集し始めた。海で撮ったフィルム、過去に撮ったフィルム、下原先輩にもらったフィルム。切ったり繋げたり切ったり繋げたり……



 編集機の小さな画面の中で麻友が笑っていた。



「……っ」

 しゃっくりのような声にならない音。

 美帆の喉と胸元が連動するようにビクンとする。

 視界が歪んだ。

 麻友がよく見えなくなって、美帆は手の甲で目を擦り、視界を元に戻そうとする。でも、いくら擦っても、視界は直らなくて、画面に映る麻友が見えない。

 机の上の編集機の前に、ぼたぼたと水滴が落ちて、小さな水たまりがいくつも重なった。


「うぁ」

 遂に美帆から声が漏れた。


 何日も美帆は泣かなかった。我慢していたのか、現実感がなかったのか、そこまではわたしには伝わってこない。ただ粘土のような何かが胸に詰まっているのは感じていた。それが、一気に溶けて、流れ出ようとしている。


「あああああああ」


 美帆から唸るような声が溢れる。

 胸が痛すぎて、悲しすぎて、もう何がなんだか分からなくなる。

 美帆、泣かないで。


 違う、泣いて。

 ちゃんと泣いて。

 わたしも一緒に泣くから。



 息が切れるくらい泣いて、それでも、美帆は編集を続けた。

 泣きながら、フィルムの中のたくさんの麻友を見続けた。笑ったり緊張してたり寝てたり。肩だけ、手首だけだったり。

 美帆がずっと観ていた麻友だった。

 それから下宿から持って来たCDを音源にして、音楽を入れた。

 最後に編集機から外したフィルムを小さなリールに巻き取ると、宝石をしまうように、震える指先で慎重に、小さな紙箱の中にそのフィルムをしまい、近くに置いてあったサインペンを手に取った。



 Still love her



 小箱にそう書き込んで、美帆は、麻友をその箱の中にしまい込み、箱ごと抱きしめるように胸に押し当てて、誰より大切な彼女の名前を呼んだ。


「麻友……!」





 そして世界が暗転した。


 水の中で、ぐるんぐるんと渦に巻き込まれるような、感じ。







 久々に、自分の体、美帆の体ではなくて、自分の体がビクンと大きく震えて、わたしは目を開いた。


 しゅうちゃんがわたしを横抱きにして、じっとわたしの目を覗き込んでいる。目の下の黒子を見て、ああ、柊ちゃんだと確信する。

 柊ちゃんがなぜか、泣きそうな顔をしていることに気付いた。目尻にうっすらと涙が溜まっている。



「……ほ、に……てぅ、ね、……っぱ……」


 耳が急に音を拾い始めた。柊ちゃんの声がよく聞こえない。


「何?しゅ、ちゃん、なん、て言ったの」


 めちゃくちゃ久しぶりに自分の声を出した。

 なんだか掠れてしまっているようだ。


透子とうこ

 柊ちゃんはわたしを呼んで、ぎゅっと抱きしめる。

 そうして、やにわにわたしを立たせると、手を引いてベッドに引っ張っていく。

 え、ちょっと待って、今、そんな気分じゃない。

 そう思ったけれど、柊ちゃんは、わたしの頭を顎の下に入れて、離さないようにしっかりと抱きかかえると、

「透子、一緒にいて」

そう言って、すぐに眠り込んでしまった。


 久しぶりに聞く、柊ちゃんの寝息に、わたしも眠くなる。



 そう言えば、こうしてちゃんと眠るのは、なんだか久しぶりで、すぐにわたしも眠りに落ちたのだった。




 美帆に、似てるね、やっぱり


 さっき柊ちゃんが言った言葉が浮かんで、また、消えて、わたしはそれを忘れてしまったのだった。

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