第8話 何処

 お母さんが撮ったらしい映像を見ていたら、突然、目の前が真っ暗になった。



 目が覚めると、観たことのない板貼りの天井が目に入った。


 どこだ、ここ?

 ……う、からだが動かせない。何これ?!

 でも、そんなわたしの意図と異なるように「体」がどんどん動き出す。

 起き上がって目に入った部屋も見たことがなかった。

 視野から部屋を推察する。広さは6畳くらい。押し入れと小さなキッチン。昔のドラマとか映画に出てくるような狭い一室。家具は、炬燵にもなるテーブルと食器棚と本棚。

「体」は押し入れを開けて、たたんだ布団を下段にしまった。押し入れの上段は箪笥代わりらしく、棒を渡して衣服が並んで掛けられている。

 全体的に質素な部屋だ。

「体」がシンクでざぶざぶと顔を洗うと、タオルを持ったままサンダルを突っ掛けて、その部屋を出て廊下に出た。廊下の片側は窓。窓の向こうはどこかの普通の住宅地。反対側は同じようなネームプレート付きのドアが等間隔で四つ並んでいた。アパート?

「体」は廊下をテクテクと突き当たりに進んでいく。

 扉を開けようとして、その内側から出てきた若い女性とすれ違う。

「「おはようございます」」

 軽く挨拶を交わす。特に親しくもなさそうだ。その人がパジャマの上にジャージを羽織っただけで、そういえば「体」はパジャマのままだった筈だ。果たして、扉の向こうは個室が二つあるトイレだった。

 いわゆる共用のトイレだ。「体」がドアを開ける。

 わ、和式だ!!


「体」が用を足すとわたしも楽になったのを感じる。いくつかの感覚を共有していることが分かったけれど、一体これは、どういうことなんだろう?

 さっぱり分からない。

 分からなさすぎて急に不安が襲ってくる。


 どうしよう

 どうしよう

 どうなる

 どうなる

 なんで

 あああああああ



 パニックを起こす寸前だった。

 その時、「体」が手を洗い、鏡を見た。


 お母さん!?


 鏡の中にいたのは、若い母。

 DVDの映像で見た大学時代の母の顔がそこにあった。

 若い。

 目がぱっちりしていてシワがない。

 ……何というか、可愛い。


「体」はお母さんの体だった。

 視野とか五感をいくらかは共有できているけれど、わたしの意志では体を動かすことはできない。これじゃ、どうしようもない。


 わたしは、なぜか、若い頃の母親になった。

 いや、違う。母の体の中に入り込んでいると言うべきだろう。

 原因は、分からない。

 ……あるとしたら、あのDVD?

 母が撮ったと思われる「Still Love Her」という映像。

 わたしはしゅうちゃんと一緒にそれを見ていた筈、筈なのに。

 どうしよう、どうしたらいいんだろう。


 お母さん、お母さん、お母さん!!


「え、何?」

 母が反応した。母が戸惑っているのをわたしも感じる。

「やだ、なんか変だぁ」

 母は胸をポンポンと叩いた。

 わたしは、その母の声を聞いた途端に少し落ち着きを取り戻した。聞きなれた、少しとぼけた声と口調。


 お母さん、お母さん、聞こえる? わたしの声、聞こえる?


 しかし、母にわたしの声は届かない。

 ただ、何か不穏なものを感じてはいるようで、部屋の中をキョロキョロ見渡す。そして立ち上がって、シンクでコップ一杯の水を飲み干して、深呼吸して、フーッと息を吐いた。目を閉じて、心臓の鼓動を確かめるように胸に手を当てた。

「うん、大丈夫かなぁ」

 それから目覚まし時計を見て、時間を確認すると、トートバッグを取り上げた。トートバッグの中には、テキストやノートが入っていた。大学に行くみたいだった。

 母は、実家のある地元の隣の県の大学に通っていた筈だ。わたしは地元の大学に行ったので、母の大学のことはよく知らない。

 チラッと見えたトートバッグは、ノートにはさまれたレジュメがよれていて、お菓子やティッシュが無造作に入れてあって、バッグの中は少しだけ散らかっている。それを見て、ああ、お母さんらしいなって思った。

 顔、声、それから行動、若い、わたしよりも若い女の子なんだけれど、わたしの知っている母の面影が確かにある。


 自分の置かれている状況は何が何だか分からない。

 ずっとこのままだったら、どうしよう。怖くて怖くて仕方がない。

 でも、この「体」はお母さんだ、と分かる。

 恐怖の中の僅かな安心感。お母さんがいてくれる。


 わたしは、若い頃のお母さんの中にいるのだ。


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