第10話 ハサミと前髪

夕食後、湯船に浸かりながら、真っ白い天井の一点を見つめる勇一。脳裏によぎるのは夕方の、将吾の髪が、床屋で一瞬にして刈り落とされていくシーンであった。


「大事な体の一部が一瞬で…」勇一の心は苦しみで一杯になった。子供の頃から当たり前にあり、いつまでも自分の一部だと思っていた髪が、バリカンの鳴る音とともにただのゴミになって、捨てられていく。あれほど大切に育ててきた髪が一瞬で全てなくなる。そして、それが元の長さに戻るまでには何か月もの時間が必要だという現実。


勇一は、今更ながらに、どうにかして丸刈りから逃れられる方法がないか、必死になって考え、足掻いてみる。しかし、思いつくのは、「西中の校区に家がある」という、度し難い自分の現実だけであった。


なんとなく、いつもより念入りに髪を洗った勇一は、風呂から上がって洗面台の鏡を見る。勇一は昔から、この鏡に映る自分の姿がとても好きだった。そこには、長く伸びた黒い髪をたたえたままの自分の姿が映っていた。それに気づいた勇一は、タオルで髪を乾かす手を止め、服を着ることも忘れて、しばらくの間茫然と、そこに立ち尽くしていた。


「どうしよう…」


勇一はふと、洗面台の上に置かれているハサミに気がついた。それは小学校低学年まで、母親が家で散髪をしてくれていた時に使っていたものだった。その瞬間、不思議な衝動が彼を支配する。勇一はそのハサミを手に取り、もう片方の手で前髪を持ち上げて、そこに刃を近づけようとしていたのだ。なぜこんなことをしようとしているのか、自分でも理解できないまま、ハサミが軽く前髪に触れたその瞬間、勇一は我に返った。


「こんな…」


彼は、自分の手が震え、呼吸が荒くなり、心臓がドキドキと鳴り響いているのが分かった。そして、唇を小刻みに震わせながら、荒くなった息を整えようと深い呼吸を繰り返していた。しかしそんな勇一の頭に、明日の卒業式に長髪で出席したときに周りから受ける非難と嘲笑が、どんなにきついものかという想像が浮かび上がってきた。


「くそっ…」


再度目をつぶり、ハサミを持つ指に力を入れる勇一。そしてとうとう、ほんのわずかながら前髪を切り落としてしまったのだ。


その瞬間、彼の心を、人生で最大の闇が支配した。勇一は、もはや自分が何をしているのか、どこにいるのかもわからなくなってしまっていた。彼は左手の中にある、自分が自分の意志ではなく、誰かの圧力によって切ってしまった小さな髪の束を見つめ、深い絶望感に包まれていた。


「なんで…なんで…」


勇一は自問自答しながら、ハサミを手放すと、壁にもたれかかり、裸のまま座り込んでしまった。彼の頬にはついに、これまでどんなにつらくても出なかった、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


顔面をぐちゃぐちゃにして、大声で泣きじゃくる勇一。彼の体は、軽いけいれんでも起こしたかのように、ブルブルと震え続けていた。バレー部の先輩の残酷な丸刈りを見た日から、長い間抑えていた感情が爆発した瞬間だった。

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