トワイライト・ティータイム

有沢真尋

第1話 ある日頭の中で聖女の声がして

「おめでとう、ダイアナ! 今日は最高の一日だね!」


 晴れ渡った青空の下。

 いっせいに鐘が鳴り響き、真っ白な花が舞う。


「ありがとう。ありがとう。私、幸せになります……!」


 レースがたっぷりとあしらわれた純白のドレスに身を包み、可愛らしいブーケを手にした花嫁が、目に涙を浮かべて声を詰まらせる。

 ついには「ううっ……」と感極まった彼女の肩を、隣に立って優しく抱く新郎。

 この上なく幸せな光景を前に、コッポラ子爵家の次女・イリナも胸がいっぱいになっていた。


(お姉さま、お幸せに……! こんな素敵な結婚式が見られて、私も思い残すことがありません……!)


 花嫁のダイアナは、イリナの姉。

 コッポラ子爵家は貴族とは名ばかりで、財政状況が著しく悪かった。

 もちろん、娘の結婚資金を工面するのも大変難しい有様。


 しかしそこは家族一丸となって働き、先祖伝来の家財道具も売れるものは売り、ついには「私のときがきたら、そのときまた考えましょう」とイリナが自分用の貯金を差し出して、なんとかこの日の結婚式を迎えることができたのだ。

 ここで散財してしまえば、イリナの番がきても同じように送り出すことはできないだろう……。

 それは誰もがわかっていたことだが、当のイリナが「大丈夫です!」と押し切った形であった。



 イリナは現在、王立図書館に職を得ている。

 給料は常に家計の足しにとほとんど家に入れていたが、贅沢を望まなければ暮らしていける見通しは立っていた。

 それこそ、地味で目立たない司書のローブに身を包み、日がな一日書架の間で作業をしているイリナには、出会いらしい出会いもない。それならそれで、この先働けなくなる年齢まで職場に置いてもらえれば、というのがイリナの考えだ。

 実際に、王宮勤務の侍女や教師には、そういった未婚の職業婦人が何人かいる。イリナもまた、自分がその一人になれたらいいな、と願っていた。

 そのためにも、頑張るべきは仕事。

 労働以外のことには目もくれず、お金のかかる趣味への誘惑に屈することなく。


(大丈夫、大丈夫。今までも、そうやって生きてきたんだもの。周囲がどうというより、私自身が、そんな自分のことを誇りに思ってきたじゃない。このまま静かに歳を重ねていけたら、それ以上のことはないわ。がんばろう)


 姉の結婚式に参列した日、イリナは改めてそう誓った。

 その誓いを守り抜いて、そこから五年。

 二十五歳になったイリナは、今日も図書館で仕事に励んでいる。いつも通り、波乱もなく一日を終えられるだろう。

 そう信じて、疑うこともなかったというのに。



 * * *



 その日突然、イリナの頭の中で聖女の声が響いた。


《エッッッ嘘、聞こえてる? 聞こえてるの? ヤッホー、こんにちはー! こちら聖女です。あなたは誰ですか?》


 イリナはそのとき、就業時間の真っ最中。


「え、いまの何、誰!?」


 危うく手にしていた本を取り落としそうになりながら、辺りを見回す。

 静まり返った、午後の図書館。窓からの光はあるが、ぎっしりと本の詰まった背の高い書架の間の通路は、薄暗い。

 人影もない。


(気のせい……にしては、ずいぶんはっきり聞こえたんだけど)


《はい、気のせいではありません! 私は現在神殿の奥でこの国のために祈りを捧げている聖女のジーナです! あなたがいるそこは、どこ? 本がたくさん見えるわね!》


「みみみみ、見えてるんですかっ?」


 どこから? とイリナは書架を背にして、きょろきょろと視線をさまよわせた。

 その動きをなぞるように、頭の中で声が響く。


《ふーむ。窓、本棚、本棚。天井は結構高い。そこは本を集めておく部屋みたいね。あなたはねずみ色のローブをまとっていて、胸には星型の徽章? なんの印かしら》


 聖女ジーナと名乗ったその相手は、イリナの目を使って周囲の光景を確認しているようだった。胸元に目を落としたら、図書館職員の制服と徽章まで確認された。相手の知識次第ではあるが、場所との合せ技で勤務先まで特定されたも同然。この上鏡なんて見てしまったら、顔まで知られてしまう。


(絶対に、これ以上何かを見てはいけない。ええとええと)


 そこまで頭がまわったにもかかわらず、動揺していたせいでイリナは窓を見てしまった。

 ガラスに、うっすらとイリナの顔が映り込んだ。

 笑ったつもりもないのに、ガラス上のイリナは口角をにやり、と上げて笑いかけてきた。

 ぞくり、と背中に悪寒。


(ひゃああああああ! 自分の笑顔なのに、怖い! なに、いまの!)


《か~わいいじゃない! ねずみ色のだぼっとしたローブ着てるから、地味で冴えないダサ娘かと思っていたけど。髪はミルクティー色。目はブルーベリー。瞳が大きくて幼い印象だけど、そこまで子どもじゃないわよね?》


(こどもではないです! 二十五歳……ああああ、また情報を!)


 テンション上がりっぱなしの相手に不用意に反論したせいで、知らせるつもりのなかったことがどんどん知られていく。


「ふーん、なるほど?」


 ついには、イリナの口から思ってもみない言葉が飛び出た。それとともに、本を片手に持ち替え、もう片方の手でローブの上からむに、と自分の胸に触れる。


「!!??」

「なるほど。大人」


 驚いた自分が、次の瞬間には別人の言葉を口にしていた。


(体を、乗っ取りました? いま勝手に手がむ、む、胸を)


《自分に触られたくらいでびっくりしないで? 着替えや湯浴みのときはどうしてるの? まさか、洗ってないの?》


 意味が。

 わからない。


 イリナが愕然としたまま絶句していたそのとき、間の悪いことに第三者の声が耳に届いた。



 * * *



「何をしている? イリナ」


 低く深みがあり、落ち着いた美声。

 イリナは、がくがくと不自然な動きで振り返り、視線を少し上向ける。

 そこに立っていたのは、イリナと同じ灰色のローブに、星型の徽章をつけた背の高い人物。普段からフードをすっぽりとかぶっており、眼鏡もしているので素顔がよくわからない。フードからはみだした髪により、かろうじて黒髪とわかる。見た目は「うだつが上がらない」と噂されても仕方ない、背ばかりが高い男性。


 イリナの上司、館長補佐のミケランジェロ・ホルツァー。


 王宮内の要職ということもあってか、公爵家の次男という高位貴族の出身でもある。しかしお飾りではなく、蔵書に関する知識量は余人の及ぶところではない実力派。その実力を維持するために誰よりも長い時間図書館で過ごしており、一説には「あれはもう暮らしている」と言われるほど図書館に精通した存在。

 その栄誉と引き換えに、望めば得られたはずの華々しい社交生活はすべてなげうっている。いわゆる、尊敬すべき変人の類ともっぱらの噂の……。


(私はすごく尊敬しているんですが。こう見えてすごくよく気が利く方ですし、いつもさりげなく辺りに目配りをしていて、誰に対しても親切です)


 私にも。

 そう思いかけたところで《へー!! それでそれで?》と頭の中でジーナに身を乗り出された気配。思いっきり関心を引いてしまったことに気づき、イリナは思考を断ち切った。


「補佐。私は、返却図書を戻す業務をしていたんですけど」


 気づいたら謎の存在が頭に侵入してきて、体を乗っ取ろうとしています。

 とは言えずに、イリナはひとまず聞かれたことだけに答えた。


 それから、ミケランジェロの視線が顔ではなくもう少し下方にありそうな、と気づいて目を落とす。自分の左手が左胸を掴んでいた。ローブの上から、そうとわかるほど。

 こほん、と咳払いをしてミケランジェロが尋ねてきた。


「心臓に異変でもあったか?」

「どちらかというと、頭の方に」

「頭と心臓がやられると、だいたい即死だ。もっても数分というところか。君はそろそろ死ぬのか?」

「あああ……」


 毅然として生死を問われて、イリナは思わずその場にしゃがみこみそうになる。ふらついたのを見かねたのか、ミケランジェロが腕を伸ばしてきて、イリナの左腕をむんずと掴んだ。


「ありが」

「本を落とさないように。傷んでしまう」


 本の心配だった。

 イリナはがっかり感が伝わらぬよう、深呼吸をしてから、笑みを作って丁寧に礼を言った。


「どうもありがとうございました。少し、具合が悪くなっていたんですけど、補佐に声をかけて頂いてから良くなったみたいです」


 ミケランジェロは少し間を置いてから、イリナの手を離す。


「具合が悪いのであれば、無理をする必要はない。早退するように」

「そこまででは」

「もっと悪くなってからでは、家に帰るのも大変だろう。無理をする必要はない。これは上司権限による命令だ。無用な言い争いは好まない。帰りなさい」


 そこまで言われてしまっては、イリナとしては口答えもできない。「わかりました」と告げると、ミケランジェロが手を差し伸べてきた。


(手に? 掴まれと??)


 よくわからないまま、その手に手をのせる。

 しん、と静まり返った後、ミケランジェロがきわめて厳かに言った。


「その本を貸したまえ。私が片付けておこう」

「そういう意味でしたかっ! すみません! てっきり救急看護的な意味合いで、どこかに連れていってくれるのかと……!」


 ぱっと手を離し、イリナは焦りのままにまくしたてる。

 イリナが言い終わるのを待ち、ミケランジェロが答えた。


「君は声が大きい。もう少し控えるように。それと、救急看護や家までの付き添いが必要ならひとを手配する。遠慮しなくて良い。必要か?」

「いいえ! 元気なので! イリナ、帰りまーす!」


 勢いが余って完全に仮病早退のような発言になってしまった。

 幸いにして、ミケランジェロは茶々を入れることなく聞き流してくれたようだった。「気をつけて」とだけ言い置き、その場を去っていく。

 足音が遠ざかってから、イリナは止めていた息をふいーっと吐き出した。


(白昼夢かな。変な体験をした気がするけど、もう収まったみたい。なんだったかよくわからないけど、帰ることになったし、帰ろう……)


 ミケランジェロと話し始めて以来、頭の中の声が聞こえなくなっていた。

 あれは何かの間違いだったに違いない。

 強引にそうと結論づけようとした矢先に、声が頭の中に帰ってきた。


《あなた、名前はイリナっていうのね。私はさっきも名乗ったけど、ジーナよ。よろしくね!》

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