現代③

 八月中旬は高気圧が日本列島全体を覆っていたため、台風は北に迂回して本州を直撃することはなかった。その代償に地獄の責苦に等しい厳しい猛暑に苛まれ続けることになったが。


 有馬温泉も例外ではなく、茹だる暑さは夕暮れになっても勢いが衰えずにいた。玄関先の楓の幹にとまる蝉は、今にも命尽きるかのように儚げに鳴いている。


「お前は好みのメスとちゃんと出会えたか?」


 ジリジリとどこを向いているかわからない蝉は、こころなしか悲しげに鳴くと白い光の中に飛んでいった。箒片手に話しかけていると、背後から暑さも忘れる冷たい声が聞こえて振り返った。


「昆虫相手に話しかけるなんて、とうとう暑さで頭がイカれちゃいましたか?」


 振り返ると、まだ勤務時間でもないのに制服の着物に袖を通していた日向子ちゃんが、憐れむような目で晴彦に視線を向けていた。


「随分と早い出勤じゃん。あ、もしかして……俺の体調を心配するあまり、いてもたってもいられず早く来ちゃったとか?」

「地球が滅亡するよりあり得ないことを言わないでください。さすがに清峰さん一人に任せっきりには出来ませんからね。女将さんにお願いしてシフトを増やしてもらったんですよ」


 先日、母のもとに田舎に帰っていたゲンさんから正式に瑞鳳苑を辞めるとの連絡が届いた。入れ替わるように体調不良で休職していた従業員が戻ってきたが、慢性的な労働力不足に陥っていた環境が急に改善することもなく、父の分も働くと宣言してしまった春彦は朝も昼も働き詰めだった。


 朝起きて鏡の前に立つと、徹夜オールで麻雀に明け暮れた翌日でもお目にかからない深いクマができていた。疲労困憊なのに食欲はなく、目覚まし機能を使わずとも勝手に目覚めるようになり、悩みだった弛んだお腹の脂肪をつまむといくらか減少している。


 外見の変化に気付いた日向子ちゃんが、てっきり体調を案じてくれているのかと期待したのだが、単に春彦宛に電話が来ていると母から仰せつかって来ただけのようで肩を落とした。


「わざわざ旅館に電話? 誰からか聞いてる?」


 一人一台スマホを持っている時代に、わざわざ宿に連絡を入れてくる人間なんて周囲にはいないはず。ポケットに手を突っ込んでスマホを確認しようとして、更衣室のロッカーのなかに置きっ放しにしていたことを思い出した。


 ゲンさんに仕事中は持ち歩くなと散々叱られ続けたことで、習慣になっていたことを忘れていたようだ。


「松永さんという女性の方でしたけど、例のフラレた方でしたっけ?」

「なんで日向子ちゃんが祥子のこと知ってるんだよ」

「女将さんが聞いてもないのに教えてくれました」


 口の軽すぎる母が罪悪感も感じずに話す顔が容易に想像できる。母の失態に関しては今更のことなので怒る気力もなく、電話の要件はなにか尋ねた。


「例の絵について伝えたいことがあるとのことです。そういえば美大の教授が訪れて、なにやら庭の蔵の中を物色してましたよね」

「物色という言い方はどうかと思うけど、実は蔵の中にあった絵の一つを個展に出したいと頼まれてるんだ」


 祥子との約束通り、先日瑞鳳苑を訪れた教授は、蔵の中で目当ての油絵を目にするとハンカチで口元を押さえながら言葉をつまらせ、一頻ひとしきり眺めた後にこう寸評した。


「少し拙さはあるし、サインも確認できないが生方喜八郎の作品の可能性は十分高い」


 油絵は温度湿度の変化が繰り返される中で、日々膨張収縮を続けるらしく、管理が不十分だと下地と絵の具の膨張率が違うために絵の具が下地や地塗り層から浮き上がるのだと説明を受けた。


 蒐集家コレクターのなかには、わざわざ空調設備が整ったトランクルームを借りて保管する者もいるのだとか。

 表面こそ劣化は進んでいるが、カビや汚れは見受けられないとのことで、それ以上表面が剥落しないように慎重に保管用のケースに移し入れて大学に持ち運んでいった。


「そんな貴重な絵があったんですね。どんな絵なんですか?」


 おそらく、春彦との会話の中で初めて見せてくれた関心を繋ぎ止めようと、写真ならあるよと誘って更衣室まで向かった。横並びで歩いていると、今日宿泊される客について日向子ちゃんは思い出したように語りだした。


「そういえば、今日いらっしゃる斎藤様のことなんですけど」

「えっと、確か親子二人でで泊まりにくるお客様だよね。それがどうしたの?」


 昨晩頭に叩き込んだ顧客情報を引っ張り出す。一人は確か六十代で、もう一人は九十代――。瑞鳳苑の客室の中では最も高価な翡翠ひすいの間に宿泊予定の高齢者だ。


 正直有馬温泉にはもっとグレードの高い旅館やホテルはいくらでもあるし、ウチにあるのは正直歴史くらいなものだ。だというのにわざわざ瑞鳳苑を選ぶのだから、てっきり常連なのかと予想していた。


 だが宿泊履歴は過去を遡ってもゼロ――つまり一度も泊まったことがない新規の客ということで、少し違和感を覚えた宿泊客だった。


 同年代の曽祖父は認知症が進行し、祖父は他界、父は癌で入院していることを考えると、その年代で旅行ができるほど健康でいられることが、どれほど大変なことか春彦には想像もつかない。


「その斎藤様なんですが、お祖父様のほうが少し妙なんですよね」

「妙とは?」

「予約は息子さんの名義でされたんですけど、数日後にお祖父様から電話があったんです。『貞春は元気にしてるか』と」

「ちょっと待って、貞春って曾祖父ちゃんの名前なんだけど。もしかして知り合いだったりするのかな」

「さあ……。私も一度聞いただけではどなたのことを仰ってるのか解らなかったので、ベテランの仲居さんに尋ねて始めた先々代のことだと知りましたよ」


 曾祖父がまだ健在だった頃、幼い春彦は母も呆れるほど懐いていたらしい。

 今の今まで忘れていたが、一緒にテレビを見ていた時に戦争の話題になると、酷く暗い顔をしていた光景が記憶の残滓の中から蘇る。年齢的に第二次世界大戦を経験してる曽祖父は、寡黙な性格もあってか自分から昔の思い出を口にすることもなかったし、友人関係も聞いた覚えがない。


「仮にそうだとしても個人情報を明かすのは禁止されてるので、現役を退いて長いことだけはお伝えしました」

「ふーん。そのおじいさんは結局誰だったんだろうな」


 廊下の向こうやってきた従業員と、軽く会釈をしてすれ違う。会話のきっかけを失い、それ以上謎の老人について話題が膨らむことはなかった。

 

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