高麗軒でご馳走になった翌日、貞春の姿は上野公園下の石垣の前にあった。


 街娼の人達が、客に声をかけられ値段を交渉をし、暗がりに消えていく時刻。欲望渦巻く稼ぎ時の路上に、目当ての人を探していると日本人の成人男性より遥かに上背うわぜいがある米兵の、たくましい腕に枝垂れかかっていたまつ江さんの姿を見つけた。


 二人の周囲には気軽に立ち寄り難い空気が漂っていて、何も悪いことはしていないというのに近くの街路樹の影に隠れた貞春は、じっと二人の様子をうかがっていた。

  

 互いに見つめ合い、夜間とは言え人目も憚らずに交わす口吻くちづけから目が離せず、心臓の鼓動が早くなるのを感じた。


 五月に有楽町の邦楽座で、〝はたちの青春〟という映画が上映されたのだが、その中でソファの上に横たわっている主演の幾野道子いくのみちこの顔に、大坂志郎おおさかしろうが迫って口吻くちづけするシーンが映写され、観客の度肝を抜いた。


 本来は抱擁のみのシーンだったが、GHQの検閲が入ってキスシーンが追加されたとも言われているが、なんにせよ戦前も含めて日本映画初の接吻せっぷんになる。


 ヒロヤンに観に行かないかと冗談半分で誘われていたのだが、公衆の面前で接吻など想像するだけで耳まで熱くなり断っていた。いつか自分にも愛する人ができて、口吻を交わすのかと想像するだけで悶絶してしまう。


 そうこうしているうちに、唇から離れた米兵は満足気に片手を上げて別れを済ますと、大股で遠ざかっていった。その姿を見送った貞春は、手提げ鞄から煙草を取り出して澄まし顔で口に咥えたまつ江さんのもとに駆け足で向かう。


「あら、貞春じゃない。どうしたんだい?」

「えっと、実はまつ江さんにお願いがありまして」


 まだ顔の火照りが冷めないまま話しかけたせいで、しどろもどろになっていた貞春の顔をまつ江さんは覗き込む。仕事とはいえ、やはり路上での接吻は刺激が強すぎた。


「なに恥ずかしがってんだい。変な子だね」


 深呼吸を繰り返し、落ち着いたところで伊藤さんが作る料理の試食に協力してもらえないか申し出た。まつ江さんは仕事柄、お客さんの食事に付き合うことが多いことを聞いていたので、貞春たちはもとより、そこいらの大人より舌が肥えてるのではないかと思って声をかけたのだが、話を聞いて二つ返事で承諾してくれた。


「それにしても、昔は米軍機を撃墜してた男が、実は料理人になるのが夢だったとはね。無事に生き残ってよかったじゃないか。夢は生きてる奴しか叶えられないんだからね」


 細かい紫煙を吐きながら、そう言った。

 いつの日かまつ江さんに言われたことがある。今日を生きたくても生きられない人がいる――その人たちが迎えることができなかった明日を、今日生きてる人間は本気で生きなきゃならないんだ、と。


「仕事がない時間なら構わないけど、ちゃんと伝えておいてよ。私は思ったことはそのまま伝える性格だから、不味かったら覚悟しておきなさいってね」

「わ、わかりました。ではまた日にちが決まったら伝えに来ますね」


 きびすを返して帰ろうとすると、待ってと声をかけられ振り返る。


「また後日なんて言わないでさ、これから一緒に高麗軒に行かないかい? この上野のまつ江様と同伴できる男なんて、そうそういないんだから」

「えっと、それじゃあお言葉に甘えて……」

「そうこなくっちゃ」


 半ばまで穂先が燃えていた煙草を地面に落とすと、赤いヒールで消して貞春の腕を取り歩き出した。舶来物の香水の香りは思春期真っ盛りの少年には毒でしかなく、足早に進むとヒールの音が夜の上野に響いた。


 高麗軒に到着すると、たまたま客がいなかったようで店内には客が疎らだった。店主は休憩中だったのか姿が見えず、カウンターには伊藤さんが一人立っていて野菜を切っているところだった。


 引き戸が開かれた音に気付いて、伊藤さんがこちらを見た瞬間、包丁を動かしていた手が止まった。


「い、いらっしゃい」


 上ずった声で出迎えると、空いていたテーブル席に腰掛けた貞春たちに、水の入ったコップを運んだついでに「こっちに来い」と呼ばれてそっと耳打ちをされた。


「おいおい、どこの美女を連れてきたんだ」

「少し前から仲良くしてもらってるんです」

「俺が酒浸りになってる頃、お前は女遊びをしてたってわけか」

「ちょ、何を言ってるんですかッ」


 変な会話が漏れ聞こえていやしないか、背後を振り返ったが幸いなことに、まつ江さんは壁に掲げられたメニューに意識が向いていたようでバレずに済んだ。


「変なこと言わないでくださいよ。まつ江さんには試食をお願いして来てもらってるんですから」

「まつ江さんというのか。まさか、あんな女性を昨日の今日で連れてくるとは思わなかった」

「いつまで男同士でイチャついてんだい」


 二人でコソコソと会話をしていると、機嫌の悪そうな声が背中に刺さった。


「あんた、チャーハンの練習してんだって?」

「え、あ、はい。そうです」

「客をいつまでも待たせてないで、さっさと作りなさいよ」


 矛先を向けられた伊藤さんは、わかりやすく狼狽えながら答えた。貞春が見たことがないほど慌てた素振りでキッチンに戻ると、速やかに調理に取り掛かる。


 もしかしたら、まつ江さんのことを気にしてるのかと疑いながら待っていると、昨日のような手際の良さで皿に盛ったチャーハンをテーブルに置いた。


 昨日とどこが変わってるのかは、一見するとわからない。ただ本人は自信があるのか、眼の前で腕を組みながら寸評を待っていた。


 味は――正直わからない。昨日と違うと言われたら違うし、同じだと言われたら同じ。正面で黙々と咀嚼をしていたまつ江さんは、うーんと唸ると口元を拭いた。


「これさ、ご飯に火を通し過ぎなんだよ。チャーハンって飯を〝炒めてる〟って書くけど、これじゃあ〝焼いてる〟の間違いだ。まあ食えないことはないけどさ」


 貞春には、火加減の違いなどわからなかったが、ズバリ指摘された伊藤さんはまつ江さんに黙って詰め寄ると、仁王立ちをしながら拳を握っていた。


 もしかしたら気分を害してしまったか――心配しながら成り行きを見守っていると、突然頭を下げて、「ありがとう」と声を張り上げた。


「なんだい、女にダメ出しされてんのにお礼を言うなんて、変な男だね」

「正直、どうして自分のチャーハンが認められないかわからなかったんだが、あんたの一言でわかった気がする。もしよかったら、また店に来てくれないか」


 二人のやりとりを、周囲の客はニヤニヤと笑って酒の肴にしながら眺めていた。


「そうね。気が向いたら、また来るわ」


 その一言に、伊藤さんが背中側に回した手で小さくガッツポーズをしたのを貞春は見逃さなかった。

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